生老病死の苦しみや、付随する争いや感情が、何となく執着を招く。
執着とは、そこから生まれる幻である。
せっかく執着するなら、幻を「先見の明」にすればいい。
現実解。
執着する物事が、揺るぎない事実に見えたとしよう。
執着とは実は、主観や思い込みや解釈による「幻」でしかない。
幻だからこそ、別な幻を創って現実に落とし込めば、執着の濃度は薄まる。
「そんなのはったりだ!事実は事実じゃないか!」
「事実で悶々としても、何も変わらず、つらい…」
そう感じるなら、
「事実とは、認めてしまえば、次のToDoを創れる」
という、事実についての事実を認めよう。
事実を認めることとは、事実から次のToDoを導くのに必要な動作だ。
「次のToDo」を導く幻とは、要は「先見の明」である。
「若者は幻を見る」という言葉が、聖書にある。
これは「illusion(幻影)」「phantom(幻影、お化け)」という意味ではなく、
「visionary(先見の明)」という意味である。
ついつい執着して見えてしまう幻を素直に認めることで、
「visionary(先見の明)」として、
次のToDoを導いてしまえばいい。
幻を認めると、自分の執着を解釈しなおせる。
行動も考え方も、事実の認め方も、やりなおしがきく。
事実の解釈のために、足りない行動と足りない知識について、
スーパーマーケットの品物のように淡々と仕入れ、淡々と入れ替えればいい。
「あ、これが足りないな。こちらは古い。よし、意思決定して入れ替えよう。」
と、スーパーの店長のように、淡々とありのままに認識して動ければ十分である。
これと逆に、あなたがスーパーの買い物客や店員であれば、
バーゲンや品出しの動向に一喜一憂して、執着に走るだろう。
どちらを選ぶかは、人それぞれの選択肢に過ぎない。
真面目な人が「そんな殺生な!」と言い出しそうだけれども、
生老病死の苦しみや争いの苦しみを乗り越えるとは、
視点を地球から宇宙に上げるレベルの発想にある。
シンプルに、スーパーマーケットの店長の店員という、立場の違いになぞらえたに過ぎない。
根本的に引き上げることでのみ、解釈する側としての立ち位置が、ガラリと変わる。
「執着するほど、誰しも辛くなる」という事実を認めるからこそ、まずはさっさと視点を上げてしまうのである。
人は誰でも必ず死ぬことは、先見できる事実だ。
実際どのように死ぬ瞬間を迎えるかは先見できなくとも、生きているあいだを先読みし、自分の希望を通すよう動くことは、いまその場でできる。
視点を上げて先読みし、「先見の明」を得ることで具体化し、辛さを減らすことができる。
マインドフルネスとは、天空から眺める視点で「先見の明」を得ることだと言って構わない。
事実を認めてしまえば、事実とは冷たくもあり、また優しいものだと気づけるんだよね。
boxcox.net、遠藤武。