実は胡散臭い物事には、
チャンスが溢れているんだよね。
それだけ参加者の偏差値が低いから。
自分まで胡散臭くなってしまっては元も子もないが、
ビジネスで胡散臭い分野を因数分解していくと、
ほぼ確実に何らかの学問に行き着き、
上位互換できる要素が見つかる。
読書や経験を通じて、
別な土俵にずらして、
シンプルな言葉遣いにするだけで、
胡散臭さが一気に消えてしまう物事は少なくない。
例えば「哲学書と自己啓発書は、本質的に同じ」という見方がある。
自己啓発は哲学に行き着くということだが、
これは「自分がどう生きるべきか」という人間の迷いを照らす点で共通しているためだ。
哲学書や、あるいは宗教学を因数分解すれば、
自己啓発書の言っていることに近づくのは、
ある程度本を読んだことがあれば、
だいたい想像がつくだろう。
もし気になるなら、
哲学や哲学史のわかりやすい入門などを読んでみて、
複数の著者の自己啓発書と照らし合わせると、
究極的に「自分がどう生きるべきか」が、
どちらでも求められていることがわかる。
プラトンでもニーチェでも、
生きる上での問いを立てて、
それに答えを出していって、
また問いを立てて…の繰り返しということだ。
どんなに自分に自信がある人でも、
どんなに自分に自信がない人でも、
最後には「どうやったら自分に自信が持てるか」という、
自分の存在を問う思考からは逃げられない。
自己啓発書はそれを哲学という枠の外のストーリーから書いていて、
哲学は学問という格式のストーリーの中で語られているというだけなんだよね。
胡散臭さも格式もまぜこぜにして、その差異に気づけると、
「どんなストーリーに格式に支えられていて、どんなストーリーに行動やお金がくっついて来て、どんなストーリーが胡散臭いか」
を問うことになり、差異を通じてストーリー分岐が楽しめる。
ストーリーには結末があり、
哲学は破壊的になるかもしれないが、
自己啓発はプラスを誘導することに着目している。
言ってしまえば、ほしい結果から逆算して、
自分が悩みを解消するためのストーリー分岐を決断することは、
「どうやったら自分に自信が持てるか」
「どうやったらそのための行動が出来るか」
を問う営みに他ならない。
ということは、プラスを誘導する形で哲学のチカラを借りれば、
自分のできる範囲から決断をしていくToDo作りの基礎調査が成り立つ。
次のToDoの指針が見えてくるのだから、
結局は哲学も自己啓発も本質的には変わらないのである。
胡散臭い物事は、あくまで売るための方便であり、
その根底にある考え方は、実はシンプルなんだよね。
勘違いしないでほしいのは、胡散臭い物事に、
そのまま食らいついてほしくないという一点だ。
あくまで本質をすくい取って、
願わくば自分のストーリー作りに活用し、
安っぽい胡散臭さを上位互換して、
頭角を表すことを狙ってほしい。
競技参加者のレベルが低いからこそ、
少しだけ素直に読書や学問や基礎学力をベースに学ぶことができれば、
あっさり上位互換できてしまうのは、ビジネスの事実でもある。
boxcox.net、遠藤武。