本来は「自由人のための教養」という意味だ。
現代では現実的に、
「自由人になるにはどうすればいいか」
「そもそも自由人の定義とは何か」
という問いが入ってくる。
この問いに答えるなら、
自由人とは、
「自分の土俵で確実に勝つ強者であり、かつ自分の土俵を鍛えられる知性のある人」
のことなんだよね。
要は「マッチョだけれども脳筋ではない人」と言えばいいだろう。
(古代ギリシアの哲学者であるソクラテスやプラトンやは、マッチョだったとされている。)
人間が自由を求めるからこそ、
リベラルアーツ=教養=学問の基礎が重んじられ、
それ以外の「職業的技術」と区別されていたのだ。
今は「職業的技術」とリベラルアーツが混同されている。
それだけちょっとした稼ぐチカラがほしいから、
「稼ぐチカラは自由への教養だよ」という解釈が成り立ったのだろう。
これは純粋に正しい。
本来のリベラルアーツは、
誰かの恣意的な解釈で成り立つものではない骨太さがあるが、
このようなボケ解答を認めることは、
人間が自由に過ごすための切り口だ。
どうせやるなら、
単なるボケ解答ではなく、
自分の分野で芸人として大成し、
異分野から学ぶくらいの自由があっていい。
自由学芸という意味のリベラルアーツは、
本来ものすごく懐が広くて深いのだから、
源流知った上でボケ解答も認めることこそ、
現代の自由ということだ。
boxcox.net、遠藤武。