月別アーカイブ: 2017年8月

「社会人」という言葉への本音

学生として「何かを学んでいる」以上は社会に出ていると気付こう。
学ぶことは社会や歴史と関わることであり、社会的に通用する概念やことばを獲得することに他ならない。

「社会人」と「学生」を不用意に切り分けるのが好きな人は、実は「学生としてまともに学んでいなかった疑いがある」と見ていいよ。

逆に、社会や歴史とのつながりや文脈を意識しない・できない学びは「カリキュラムありきの曲芸」なんだよね。

「哲学なんか/物理学なんか/●●学なんか、社会で役に立たない」という発想は、カリキュラムの消化に終始した、自発性どころか知識もない人の常套句。

自分の言葉で語る訓練がなかったり、文献の引用が必要な場合に適切な対処ができなかったり、というのが、社会性のない閉じた学びの特徴。何がどう社会と繋がるかを含めて学ぶことは、少しだけ応用の仕方や歴史を知ってしまえば、すごく自然なことなんだよね。

本来なら、カリキュラムが自ずと世界を広げてくれるような仕組みになっているはずが、カリキュラムを一方的に消化して評価されることありきで、知的好奇心が広がらない。これがこの問題のすべて。

昔ながらのひどいケース。大学に入って「大教室の講義の消化を強いられる」と、ほぼ確実に上みたいな問題が出てくるんだよね。

逆に良いケースは、「自分が好きな分野がどう社会から隔絶している(ように見え)て、実は歴史的にも実務上もいかに社会に関わっていて…」ということを考え出せる状況。
この発想が持てれば、少なくとも特定の分野に悪い意味で引きこもる必要がなくなる。

古典的な「読んで議論を繰り返す」というカリキュラムこそ、古くて新しい、社会に対してオープンな方法なんだよね。

「ひとすじ」の本音

「わたしはこの分野ひとすじです」と謳うことは、一見すると美しい。

高校生くらいまでのうちに、うまく調教すれば、軍隊のように一糸乱れぬ動きを会得できる。
運動部や吹奏楽部はこの好例だ。試験対策も同じだと言っていい。

しかし、一本道で焚き付けられて仕込んだものごとは、いずれ自滅を招く。

それはなぜか?
世界が狭く、不自由になるためだ。

学ぶことや知識や知性を無視して、運動部ばかりに追いやると、図体のでかいだけでうるさい底辺が出来上がる。
行動や情操やメンタルを無視して、試験対策ばかりに追いやると、口先だけ達者で本も読めない「コンプレックス持ち」が出来上がる。

この二者は、どちらも世界が狭く、特定の分野の常識に流されている。

さらに心の余裕がだんだんとなくなって、マナーやしつけがお留守になることでも共通している。

一方的に教え込まれた世界から逃げ出せないまま、一生コンプレックスを背負って生きていくしかないかのような顔つきを、早くも高校生くらいから作り上げてしまうのである。

いずれも自分が一次情報として経験した物事であるが、部活であれ色々な受験であれ、就職活動やそれ以降であれ、これにはほとんど例外がない。

この原因は、ライフイベントで、自分で何かを決める自由がないまま時を過ごしてしまうことにある。
もしあなたが特定のコミュニティ内部や、群衆の中で「何かがおかしいぞ?」と感じたら、周囲が自由を持たずに流されている可能性をすぐ疑って構わない。

少なくとも、第一線で活躍し、一流と称される人は、武芸百般や百科全書と呼べるほど、多彩な背景や知性を抱えている。
有り余るほどの、自由な発想と一緒に。

「アクティブ・ラーニング」の本音

大学生の受け身志向が進む傾向が取り沙汰されているけれど、いくらアクティブ・ラーニングを実施しようとも「主体性を持てる人がそもそも少数派なんじゃないの?」という発想をまず持とう。

アクティブ・ラーニングを実施しようとしても、特定の分野に恐怖心や抱えたままでは、恐る恐るしか動けない。あるいはいかに教養として重要な知識であっても、無関心のままでは、無い袖は振れない。加減乗除に嫌気がさしていれば数学記号に無関心となり、歴史上の人物の名前に興味がなければ史実を憶えることが億劫になる。こんな状態では、アクティブ・ラーニングの実施はままならない。

アクティブ・ラーニングでは、主体的な議論や発表を軸にする以上、殺人的なレベルで非常に大量のインプットを網羅的にこなせる基礎が求められる。これを楽しめない限り、まともなアウトプットにはつながらない。恐怖心や無関心があるままでは、指を加えて傍観するくらいしかできないよね、という話だ。

「大学レベルとはお世辞にも呼べないけれど、よく頑張りました」という大学が学位を乱発したところで、結局は評価に堪えうるアウトプットすら出せないのである。

学部入試対策で燃え尽き、マスプロ講義の試験対策ばかりで「主体的なアウトプットに乏しい」とぼやかれている日本のトップ層の大学と同じくらいの根深い闇が、アクティブ・ラーニングにへばりついているよね。

「自称フリーの翻訳者」の真意

・誤字脱字が目立つ
・ひどい逐語訳を生産する
・まともに調べる能力がない

自称「フリーの翻訳者」のダメなところは、この3点にまとめられる。
つまるところ、頭が悪く学習能力に欠ける「文化の解釈が不自由な自称国際派」の逃げ場。
特に、在外歴が長いとこの傾向が強くでてしまう。

裏を返すと、この問題を解決できればすぐに秀逸なアウトプットの基礎が付く。
もっとも、そんな人が「フリーの翻訳者」に収まるとは思わないけれども。

「チーム作り」の本音

チームを的確に作って率いる人は、人選びがうまく、知識も行動力もあり、さらに言葉遣いは群を抜いて的確だ。

ただし、こんな人材はヒエラルキー関係なく、一般的な組織内の10%を占めれば良い方である。

残り90%は「仕組みを作って率いる」のではなく「スキルの見極めがつかないまま指示する」だけが関の山というスキルしか持ち合わせていない。

プロジェクトマネジメント/PMBOK、BPR、PDCA、内部統制…それ自体が面白い知識や概念がある。

また、こういった本のように、活用できる知恵や発想も世の中にはいくらでも存在する。

これらを自分の頭と体をフルに活用して、「概念上のものづくり」を対話ベースで実行出来ないのであれば、知識も準備も不足しており、そもそもチームを作る意思がゼロということである。
こう書くと「そんなわけない、意思はある!」という反論が出てくる。しかし、権限に伴った知識が足りていないのに反論するという芸当は、口先だけ達者な人の手口に他ならない。口で言う前に知識で反論すればいい。

原理原則は、知識の組み合わせが全てである。チームづくりをしているリーダーの力不足は、知識不足とだとも気づかずに、堂々巡りをしているだけだ。

知識をあつめられないなら、即日リーダーをやめたほうが身のためなんだよね。

「試験勉強」の本音

「特定の条件に応じた、パターンの記憶に基づく吐き出しの動作」ということ。

それどころか、ものごとの意味を読み解くことは関係ないということまでバレてしまった。
自分の頭で考えることが重要視されている今、それでもなお試験対策に特化するのなら、テスト理論くらいは当然知っておきたいよね。
さらに言えば、試験勉強の是非を問うのではなく、試験勉強のウラにどんなプレイヤーがいるかは即答できるようにしよう。
受験産業、資格産業、教師・教授…これらの人たちが食べていくための仕組みが業界として存在しており、多数に向けて仕掛けたマーケティングの産物でしかない。
いかに試験勉強を心理学的・社会学的に探ろうと「結局はビジネスなんだよね」というシンプルな感覚が持てないなら、なされる議論は閉鎖された空間のありきたりな残響に終始してしまう。
これと逆に、アカデミックスキルありきで、議論することが中心に据えられたプログラムの場合は、ものごとを読み解いて自分の頭で考えることが全て。
文頭をもじると「知識を仕入れ、そこからパターンを見出して、条件を特定していくアウトプットや行動」が議論やアカデミックスキルの骨格ということ。
閉鎖的にさえならなければ、あるいは閉鎖的になるよう仕向けられている価値観がコッソリ入り込んでいることにさえ気づければ、試験対策と真逆のことをするだけで、実はアカデミックスキルに辿りつけてしまうんだよね。

「名無し」の本音

名前を出して物を書く人は、ウェブ上の「名無し」が大暴れして炎上することを怖がる。

Anonymous Coward(名無しの臆病者)とは良く言ったものだけど、本当に臆病なのは、実は名有りの書き手の側だ。
時には、平静を装いながら「自分には関係ない。淡々としていればいい」と強がる。
時には、怖がりながら「売名のお手伝いありがとう!」と喜ぶ。
時には、過去の発言を並べ立てられて、徹底的に矛盾を吊し上げられる。
名無しと名有り、どちらが良いか悪いか、どちらが是か非か、を問うつもりはさらさらない。
ただひとつ指摘するなら、インテリジェンスと気迫を感じさせる「名無しの渾身の指摘」と、ゴテゴテした中途半端な肩書き付きの「名有りのポジショントーク」では、前者のほうが例外なく面白いということだ。
「ポジショントークの名有り」「素行の悪い名有り」の特徴を書き出すと、以下に収束する。
・「名無し」のコミュニティで流行っていた分野をレイトマジョリティやラガード向けに焼き直して売る
・考える上での基礎力がない(例: 学際系分野を専攻した、大学受験をしていない、発言する上で先行研究を無視する)
・仮想敵や仮装原因をつくり、やたらと自由を制限しようとする発言を繰り返す

これら全てに共通するのは「発言する上でのインテリジェンスが根本的に足りていない」ということだ。
発言をする上で、矛盾を楽しんで操るインテリジェンスと余裕があるくらいでなければ、あっと言う間に名無しから吊るし上げを喰らう。
それどころか名無しでなくとも、幾らかまともに学んだことのある人から「デタラメを言うな!」という正答が飛んでくるだけだ。
この喧騒を回避するには「ウラにどんな力関係があるのかな?」と問い、関連当事者がいる可能性を仮定するといい。
これはシンプルに言えば「ヒト・モノ・カネ」の流れをタグ付けして考えることである。
このタグ付けがフィットしない、それ自体が純粋に面白い発言の場合は、名無しであっても名有りであっても、見えてくる風景が際立っている。

面白いことに、極論を徹底して楽しむ余裕がある書き手の場合、
素行が悪いはずの名無しらは驚くほど冷静で、かつインテリジェンスを示す。
意図的に矛盾を楽しむ者は、同じ空気が好きなんだろうね。

「やりがい」の本音

「大したことのない他者を何とかしてコッソリ没頭させようとすること」が、「やりがい」を他者に対して仕向けている人の本音。

特にサラリーマンをして使役せしむ時に多用される理由は、これだけ。

これと逆に、パフォーマンスが非常に高い人や、リーダーシップを張る人や、自分のなすべきことをしているプロは、コンディションもモチベーションも自分で整える。アスリートでもマエストロでも受験生でも、これは共通しているよね。
この落差にギクリとする人は「本当に自分の意思で物事を決めてる?」かどうかを一度疑ったほうがいい。
物理的にも心理的にも、物事から距離を取れば、自由に動けて、自分から没頭する余裕が出来る。
言葉遊びのような物言いだけど、
・面白いことだけに集中する
・つまらなく感じたら今までにない選択肢で動く
シンプルにこの二つだけで戦ってみるといい。
という問題提起があるけれど、自分の居場所を自分で組み立てる自由を確保することのほうが、誰かが用意した社会ありきで話を終わらせるより大事だよね。

「使える英語力」の本音

少なくとも、Chicago Manual of Style や Little Brown HandBookや、これらの類書に触れて学んだことがあって、初めて英語の力量を問える。

この力量は、世界の有名大学のExpository Writing (大学から大学院レベルの論述力を鍛えるプログラム) で鍛えられる。

ネイティブなら誰でも出来る発音や日常のコミュニケーションではなく、知性に徹底的に投資する形で英語力を問うことが大切だ。

試験対策や日常会話しかできないという人は、古来より続く『弁論術』を知らないということ。


『弁論術』を知らないのは、骨格のないコミュニケーションに終始するということ。

骨格のないコミュニケーションは、礼儀作法どころか中身も欠いてしまい、一定レベル以上の人には全く相手にされない。

せっかくコミュニケーションを取ることで価値を創るのなら、中身を「好き」とも「嫌い」とも言われないのでは、何も始まらない。


生来のバイリンガルであることは実は重要でなく、知性と行動力を駆使し、結果的にものごとを楽しんで語学力が備わることがすべてということだ。

環境に適応しながら、自分で面白いものごとを吸収出来る人はどんな場所でも生きて行けるよね。

Univ of Chicago Pr (T)
2017-09-05



アリストテレス
岩波書店
1992-03-16




「理系」と「文系」の本音

まともな大学で学べている人は「理系」「文系」という曖昧な俗語を使わない。
自然科学・人文科学・社会科学という分類を使う。
日本十進分類法はこれに対応しているんだよね。

この分類に「そんなわけないだろ!」と違和感を感じるとしたら、それは教養を考える以前の状態。
受験産業や、高校までの価値観や、明治時代の分類がどうだったかを再確認しよう。
「なるだけ早めに卒業して、もっと自由になれよ!」というシグナルなんだよね。