学生として「何かを学んでいる」以上は社会に出ていると気付こう。
学ぶことは社会や歴史と関わることであり、社会的に通用する概念やことばを獲得することに他ならない。
「社会人」と「学生」を不用意に切り分けるのが好きな人は、実は「学生としてまともに学んでいなかった疑いがある」と見ていいよ。
逆に、社会や歴史とのつながりや文脈を意識しない・できない学びは「カリキュラムありきの曲芸」なんだよね。
「哲学なんか/物理学なんか/●●学なんか、社会で役に立たない」という発想は、カリキュラムの消化に終始した、自発性どころか知識もない人の常套句。
自分の言葉で語る訓練がなかったり、文献の引用が必要な場合に適切な対処ができなかったり、というのが、社会性のない閉じた学びの特徴。何がどう社会と繋がるかを含めて学ぶことは、少しだけ応用の仕方や歴史を知ってしまえば、すごく自然なことなんだよね。
本来なら、カリキュラムが自ずと世界を広げてくれるような仕組みになっているはずが、カリキュラムを一方的に消化して評価されることありきで、知的好奇心が広がらない。これがこの問題のすべて。
昔ながらのひどいケース。大学に入って「大教室の講義の消化を強いられる」と、ほぼ確実に上みたいな問題が出てくるんだよね。
逆に良いケースは、「自分が好きな分野がどう社会から隔絶してい(るように見え)て、実は歴史的にも実務上もいかに社会に関わっていて…」ということを考え出せる状況。
この発想が持てれば、少なくとも特定の分野に悪い意味で引きこもる必要がなくなる。
古典的な「読んで議論を繰り返す」というカリキュラムこそ、古くて新しい、社会に対してオープンな方法なんだよね。