継続とは、ものごとを惰性で行うことだ。
気張って「継続するぞ!」と思う必要は全くない。
「今までやっていなかったけどやりたかったこと」を惰性でラクに出来るようになれば、儲けものである。これが可能になれば、日常の惰性をとっかかりに日々を上書き更新して、自分から変化していける。
気づかないうちに惰性で変化する例として、母語の習得を参考にするといい。
小さい頃に母語を知る際、家庭環境で「継続するぞ!」と気張っていた幼な子は皆無だろう。母語の環境に囲まれて、自ずと母語の言語能力が育つためでである。
では言語の先にある、知識の習得はどうか。
知識の場合は、各家庭の文化資本の多寡が、教育水準の高低や、読書量やボキャブラリーや知的水準を決めてしまう。これは文化資本の重みが、惰性で幼な子を動かしているということだ。
知識の水準の高さは、ただ単に教育を受けさせるだけでなく、惰性で学ぶことを支える環境が重要となる。母語も知識も、性質の違いがあれど、環境に依存する惰性が、その習得を支えているということになる。
話を「継続するぞ!」という発想に戻そう。
ようは継続とは、惰性を活用して継続できる環境をどうセッティングするかが重要ということだ。
何かを達成しようとするならば、環境にどうやって助けてもらうかを見定め、その上でエネルギーを注ぎ込むことが必須なのである。 既存の環境とのギャップで、ストレスやコンプレックスに負けてしまうことを極力回避できるというのも、このメリットだ。
「頑張る」という言葉を不用意に使うのは、せっかく自分にエネルギーがあるのに、環境のセッティングを放棄してしまうということになるんだよね。