読書しすぎて、却って「どんな先行研究があるか」を調べられなくなってしまっては意味がない。
科学がどのような誤謬を抱えうるかを見定めるために、科学を学ぶのである。読書はその過程だ。
科学の方法論を試験対策のために手続き記憶することは、教育についてまともな投資計画や創意工夫がなされていないだけである。
このフローで、読書や経歴や学歴を論じようと、全くの無意味だと気付こう。
読書を知的生産に転換するプログラムがない状況下では、優秀な人は「意図して育つ」のではなく「偶然出てくる」に過ぎない。これは教育ではないということだ。
懐疑心を持ち、具現化していくための読書でなければ、知的生産とは言い難いシロモノなんだよね。