一定の趣味だけで動き、学問的な誠実さがないメディア露出者をよく見かける。
こういう層は、いつの間にか「行動のない冴えない評論家」に成り下がってしまう。
「理系と文系」とか「中学受験」とか「大学受験」「新卒就活」「ネットビジネス」「恋愛」といった、特定の基準に閉じこもって煽ることだけが得意な層は、面白いほどこの傾向にある。
いずれも、特定分野のマーケティングの産物だとか、匿名掲示板で騒がれる共通の話題に過ぎない。
分析的・批評的な思考を一切持ち込まないし、分析しようにもチェリーピッキングばかりが目立ってしまう。
また「自分の言葉」を粗野なまま重視するあまり、事実や経緯や立ち居振る舞いを直視できず、残念である点も特徴だ。
例えば、自分で立ち居振る舞いの重要さを解いているにも関わらず、自分から立ち居振る舞いのレベルを下げてしまうことが挙げられる。しかもご丁寧に、実名で。
もしこういった層が、仮に事実ではない「詩」を書きたいのあれば「これは詩だよ」と言い切ってしまえばいい。
しかしこういう層は、アリストテレスの『詩学』にすら触れず、詩についての概念を掘り下げたことがないのかもしれない。
せっかくなら「知性を高めて世界を読み解くような知識」を論じて、声なきところに、詩やテキストを通じて声を響かせればいい。
絵や音楽やジャーナリズムを複合したかのごとく、白日の下に描き出せれば、それは立派な才能だ。
職業として冴えた評論ができるということは、こうやって描き出すことへの飽くなき執念アリということなんだよね。