何かを論じる(フリをする)にあたって、
「タブーだ!これは根本的におかしい!」
「これは危ないことだけど、問題提起すべきだよね」
という、真っ二つに分かれる状態が問題だ。
この差は、
・自由のフリをして、名もなき誰かの自由を攻撃する
・名もなき誰かの自由を、外側から防御してあげる
という違いにあるんだよね。
炎上して大騒ぎになるようなタブーって、
ただの悪口に「問題提起」という商品名をつけただけであって、
実のところ問題提起でもなんでもない。
この本質は売名だと、そこかしこで言われている通りだ。
タブーを、落ち着いた立ち居振る舞いで扱うとしたら、
むしろ言葉ではなく、行動と知識の積み重ねで、
少しずつ組み上げる以外にない。
あるいは、フィクションや詩歌や絵といった作品にのせて、
多くの人が直観的に見通せるようにするのも手だ。
自由を守るためのやさしさを持つ勇気がなければ、
いくらタブーをあげつらってみようとも、
ただ立ち居振る舞いがうるさいだけでしかない。
タブーをあげつらうなら、最低でも「名前や肩書き」からも自由じゃないと、
誰かの忖度という「条件付きタブー」にもなりかねないんだよね。
うるさいだけの条件付きタブーって、本当にタブーだと言えるのかな?