「わかりづらい話題を語ることには価値がある」
そんな発想が、昔も今もあちこちにあふれかえっている。
これは半分は正しいが、半分は大間違いである。
「わかりづらいことを、わかりやすく語る」ことにこそ価値があるのである。
複式簿記でも医療でも数学でもプログラミングでも、
特段、知的生産をしない人にとっては、
何らかの知識の習得には一定の時間がかかる。
元々の知識が系統立っており、用語の理解にも一苦労するためだ。
また、それらの知識を活かした知見の提示には、頭に汗をかく時間が必要だ。
理解することにも一定の価値はあるが、問題はその先だ。
時間を使って理解した、その先の話。
わかりづらい物事を、わかりやすく応用できる人が重宝されるのであって、
わかりづらい物事を、わかりづらくそのまま語るというのは、同語反復である。
上記とは真逆の、その先の話。
理解をしたその先で、教科書に載っていないような場面で、
「わかりづらい場面の解釈」から「決断」を導ければ、
自分も他者も満足させることができる。
前提条件を定める。知識はトラッキング可能にしておく。
これを義務教育を修了したレベルの「学びたい人」に対し、
再現可能な形で話すことが出来ないのであれば、
わかりづらいことをわかりやすく話したことにはならない。
「わかりづらい場面」を、そのままわかりづらくしか語れないのであれば、
何も発見できないどころか、何にも気づかないまま時間ばかりが経過してしまう。
こうなってしまっては、そもそも辛いだけだ。
わかりやすさにかこつけて、誰かを口当たりよく騙すことも出来る。
作者不詳の情報商材にありがちな話だ。
わかりづらさにかこつけて、誰かを張り子の虎で騙すことも出来る。
中途半端な専門家にありがちな話だ。
わかりやすく言えば、このどちらも本質は同じなんだよね。