「ネットで何でも調べられるようになり、知識の詰め込みには価値がなくなった」
ネットでよく見かけるこの視点は、実は真っ赤な嘘だ。
そもそも知識の詰め込みとは、試験対策程度で完結が出来るような類の話ではない。
「論文や専門書を複数言語で読んで、知的生産としてアウトプットする訓練と実践」
という、世界共通の大前提が存在している。
残念ながら、日本語圏ではこのようなハードワークを経験できる層は、ごくごく限られてしまっており、なかなか気づけないのが現実だ。
大卒以上(かつ上から数えたほうが早いランクの大学)で言おう。
試験対策・過去問・マスプロのどれかに無批判に関わり続けていると、懐疑する自由がなくなってしまう。
また、そのままサラリーマンや研究者といった職を得てしまうと、自己目的化されたハードワークや、方向転換の機会は、ほとんど得る機会がなくなってしまう。
純粋に自己目的化されているハードワークを経験をしていない状態では、
詰め込みも知的生産も、それらを通じた懐疑も方向転換も、
上記のような大多数は自由にできないということだ。
常識に感化されすぎたり、職を得たあとだと、
自己目的的な無所属という自由が消えてしまい、
どうしても目先のバイアスに脇道をそらされてしまうためである。
せいぜい、新卒一括入社のサラリーマンを経た後、海外で働くか学ぶかして、ようやく「もしかしておかしい?」と連呼する側に回るのが関の山だ。
一方、前向きなことを言おう。
自由に根ざした知的なハードワークを経ていると、どこかで「方向転換しよう」という意思がふと働く。
これは、ハードワークを経て1つの分野についつい飽きてしまったり、ふと思わぬところでついつい知的好奇心が働いて共通点を見つけたりして、ついついもっと自由に学ぼうとしてしまう反応だ。要は、ハードワークを繰り返した体験が、ランナーズハイのような感覚を誘っていると言っていい。
この感覚を持っている人からすると、おおよその物事は「知識不足」という視点で解決できてしまうし、知識や事例の組み合わせから、将来や未来を手繰り寄せることができる。
私が知識不足の回避を繰り返し主張するのは、
「詰め込むべき知識を素直に探れる、自由な懐疑心を確保するため」
だと言い切っていい。
前提になる知識をある程度網羅する形で得ていれば、何が足りなくて、何を知っていて、何を疑うべきかが見えて来る。
「知識の詰め込みは、ネットで何でも調べられる今となっては意味がない」
この当たり前らしき主張を、自分の言葉で疑える知識と経験を頭の片隅に用意しよう。
悩みのタネである問題を軽くするための詰め込みが、第一歩だ。
強烈で生々しい悩みであるほど、自由かつ自発的に動くしかないものね。