日本語圏での教育語りの本質は、ナラティブセラピーだ。
どんな層でも自分語りできる分野ゆえに、自分の過去を肯定するべく、
ナラティブセラピー化しやすい分野ということである。
教育語りの先行研究や前提。
教育史や制度設計や教育社会学や教育心理学や教育工学…あたりが求められる。
(予備校や試験対策は、このいずれかに組み込まれて観察される個別の事例に過ぎない。)
先行研究を用いる大学教授でさえ、このような知識の不足を、
バンバンやらかしてしまう例は数限りない。
先行研究を欠いてしまえば、議論と呼ぶには全く未熟である。
それだけ、個別的な事例のインパクトばかりが強く、知の前提が機能していないのだ。
知の前提として、リベラルアーツの枠組みを挙げられる。
リベラルアーツを端的に圧縮して言うと、哲学も宗教学も政治学も法学も数学や自然科学全般も、
「まずは古代(特にギリシア)からの流れを押さえて学びましょう」というまとまった視点だ。
近代を経て現代の入り口に進み、学問が日本語圏に輸入されるにつれ、ぼんやりとタコツボのように分化していった。
つまり、原理原則やインフラとして連続したリベラルアーツが行き渡らなくなった。
もっぱら個人の感情や経験だけで、前提の要件定義が、
なんとなく終わったことにされているのである。
実際は定義すらされていないのだけれど。
やがて教育語りは、個人の教育経験や試験対策に疲弊した人たちによって、
個人レベルのナラティブセラピー以外に、道を選ぶことが出来なくなっていったということだ。
知的体力がない状態が続けば、疲弊する以外になくなってしまうんだよね。
タコツボに逃げず、原理原則によって立てば、実は解決策は沢山あるんだけどね。