経営に関して、
「怪しい!事例や根拠や知識がないじゃないか!」
という視点が浮き出ることがある。
これはつまり、誰も言葉にしきれていなかった視点が、
中途半端に出てきているということだ。
言うなれば、学習不足で作ろうとしている文芸や詩歌のひとつである。
必ずしも、論理や事例が積み重なっているわけではない。
けれど、過去の創作事例への畏怖は確実に欠いている。
このとき、口先から単純に出る言葉が、状況によってやたらと怪しく感じてしまうのは、
創作や事例と、主張したいことを中途半端に混ぜ込んで、
自認しないままに物事をごまかしているからなんだよね。
ウラの思惑を思わず勘ぐりたくなる兆候が出てしまっているというのは、
作りが甘い部分があるという意味だ。
話を創作に移そう。
堂々と創作するなら、悲劇的・喜劇的なものであったり、
望ましい状況をもたらすものであったり、心温まるものであったり、
本音をえぐり出すものであったり、
世の中への警鐘や風刺であったりするだけでいい。
たとえシンプルなものでも、ギリシアの悲劇・喜劇や、漢籍や古文や、
プラトンからNATO以降の歴史や、科学史など、
一定の知識がなければ、創作として立脚する文脈を欠いてしまう。
先行研究というファクトに精通していて、初めて実現性を創作できるのだ。
つまるところ、知識の文脈に立脚する点は、創作や論文と大差ないと言って差し支えない。
話を経営に戻そう。
ぶっちゃけちゃうと、ビジネス「だけ」に関わっている人は、
こういう高濃度の知識にろくに触れず、放置している。
経営しているにも関わらず、自分の運営する組織の末端まで、
管理が行き届いておらず、言動が一致していないのである。
そういう人「だけ」の人向けの書籍が怪しいのも、
そういう人「だけ」の人が喋る内容が怪しいのも、
実は単に自分で自分を知識不足に追い込んでいるというだけだ。
一次情報で言えば、日本人だろうとそうでなかろうと、
経営周りのこの事実にはそう大差がないんだよね。
現実解。
結局は知性や知識や知的好奇心を大事にするだけで大丈夫。
..遠藤武