自分のペースを保って、インプットとアウトプットの品質を最大化する。
そのためには、個人だろうと組織だろうと、疲れが残らないように適宜休む必要がある。
休むとは、単に休日を取るという程度の話ではない。休日があろうとも、心のストレスが過去から蓄積されていては、消耗の果てにどこかで爆発してしまう。
手抜きしても問題ないところで手を抜いて、消耗しないようにする。
その程度のくせをつけるだけで十分である。
では、幼少期から消耗している場合はどうか。
幼少期からのストレスがあるとしたら、その事実をそっくりそのまま受け入れる。
それだけでいい。
幼少期からのストレスを抱える人が、私の周りには複数いる。
話を聞いていると、その事実の特別視や悲観視を一切やめ、素直に自分の人生の材料として共生して行こうと腹落ちした人から、次のステップを歩んでいくという傾向がある。
これはつまり、どんなに悲惨な状況だろうと堂々巡りをやめ、人生でなすべき物事の材料を見つけたことに他ならない。
材料として扱うという発想は、ここで言う一つの「手抜き」である。
ストレスが溜まると、それに応じて感覚が敏感になる。
ついつい考えてしまう感情が出てくる。これは防衛機制として正しい。
これを、原因含めてすべて共生する物事として受け入れることで、
ついつい出てくる感覚や感情に、いちいち過度に反応しないように誘い込むのである。
ふと出てきたら「やあ、またこの感情が出てきたね」とでも、
ご近所さんに挨拶する程度に関わっておけばいい。
感覚や感情を、無理やり止めようとする必要は一切ない。
感覚や感情を、事実やロジックから分析することを止める必要もない。
感覚や感情が止まらず消耗するくらいなら、
あるいは感覚や感情を事実やロジックで分析して消耗するくらいなら、
単に「ご近所さん」程度に留めてしまう決断を下せばいいというだけの話である。
現実解。
一挙手一投足のすべてに理由づけを求めない、そのような遊びを持つ。
「手抜き」の発想を、行動だけでなく、思考や感覚に組み込んでしまえばいいんだよね。
..遠藤武