「ここ最近『言っちゃいけないことが本質』とか『タブーを攻める』とか『常識を疑え』というような文言をあちこちで見かけます。極端な場合だと、ホストクラブの広告にそういうことが書かれています。これはなぜでしょうか。本当にそこに本質があるのでしょうか。」
まず大前提として、「常識を疑えるのは、常識を知っている人だけ」という事実を噛み締めておきましょう。
その上で「言っちゃいけないこと」「タブー」「常識破り」は、単にスカッとする、ある種のドラッグのようなものであり、クスリにもなればリスクにもなると覚えておきましょう。
なぜかといえば、「言っちゃいけないこと」「タブー」「常識破り」は、現状維持を許さない強烈なスタンスだからです。だからこそ、「常識を疑えるのは、常識を知っている人だけ」という事実なしには、ただの煽り運転や迷惑行為になってしまうのです。
ここで言う具体的な常識とは、義務教育の内容(公立高校入試の範囲)をテストで出されたとき、9割は正答できるくらいの基礎知識です。このレベルに立っていない人が「常識を疑え」と述べていても、そもそも「そもそも、頭を使うための常識不足の分際で、何をほざいているのか」と一蹴されて終わりです。
常識を知っているレベルをクリアしてから、やっと常識を疑えます。そのための概念やボキャブラリーを得ているからです。
常識を知っていれば、なんとなく接している人について、「ああ、この人は勉強不足なんだな」とか「なるほど、あの人はああ見えて実は博識なんだな」とか「ほほう、あの方は実はコンプレックスがあるのだろうな」という感覚が、ぼんやりと見えてきます。
言わずもがなですが、これらの見えてくる要素は、不用意に告げたら100%嫌われます。不用意に告げるのは、愛がありません。仮に告げるにしても、嫌われることを覚悟の上で、命がけで伝えてやる必要があります。とすると、相手がわかる言葉で伝えてやるとか、相応の工夫や基礎知識が必要になりますね。
ここで、「愛がどうたらと、いきなりどうした?」と思うかもしれません。不用意なタブー攻めの発言は、昨今ではSNSのアカウントが匿名実名関係なく展開しています。これは口汚く罵り合うSNS上の大喜利だと捉えるのが正しいです。そのアカウントが相応に常識を知っているから出来る芸当ですが、これらは例外なくいわゆる炎上芸であり、台本やキャラ付けのあるアバターのようなものです。政治的な発言も、科学的な発言も、専門家でない限りは、タブー攻めはファンサービスのためにやっているのです。単にその人の芸や自尊心で利得があるからやりあっているだけなのです。仮に「そこに愛があるか?」と聞いても、何も返ってこないでしょう。
上記のような炎上芸はベクトルが異なるのでさておき、愛がない状態でタブーを攻めると、100%嫌われるとわかりました。ここでやっと、「常識を知った上で、常識を疑う」という言葉の重みが出てきます。
相手の常識に寄り添った上で、相手の常識を疑い、いい塩梅で非常識に導いてやることが、「言っちゃいけないことが本質」とか「タブーを攻める」とか「常識を疑う」の一番の価値です。
これはカウンセリングやケアのあり方と同じであり、相手が追い込まれた鳥かごから、自然な形で解放してやる行為に他なりません。
クスリはリスクになりうるのと同様、スカッとするタブー攻めは、劇物になってしまいかねませんから。
現実解。
あまり頭がいいとは思えない層が「常識を疑え」「タブーに挑め」と言い出すのは、炎上芸と同じです。
ある程度の常識や基礎知識がある人からすれば、違和感があるのも無理はありません。
その場合は「そこに愛と基礎知識があるか?」と問い、それらがない場合や、なんとなく違和感が残る場合、炎上芸としてバッサリ切ってしまっても差し支えないと覚えておきましょう。
常識を疑うことも、タブーに挑むことも、大多数は粗雑なものしかありません。
粗雑でなく愛と基礎知識があるものは、そもそも少ないと知っておけば、そういうものだと冷静に眺め、淡々と疑うことができるのです。
boxcox.net、遠藤武。