「問題解決こそ大事!」
「否、解決策はあふれているから問題発見が重要!」
このような謳い文句のオンパレードに、お腹いっぱいになっている人もいるかと思う。
特に、内心ウジウジと思い悩むゆえに、「問題なんか解決しない!」と辛くなる人もいるだろう。
せっかくならウジウジを武器にしてほしいからこそ囁くが、
その場合「問題解決」という競技種目を、
ヒト・モノ・お金・情報という客観的に答えがある決断の話と、
内心という主観的に納得する話に分けて、
解決のハードルを下げればいい。
この意図するところは、
客観的に答えがある場合は、素直に行動して投資対効果や楽しさで決断すればいいが、
主観的な内心の問題の場合は、単に行動するだけだとしんどいと、素直に認めることである。
内心とは、自分のメンタルの動きや妄想だが、往々にしてウジウジと思い悩むことがあるだろう。
そのような主観や内心のウジウジ問題で重要なのは、「決断を思い切らないこと」にある。
客観的なものさしと決断で答えが出せる、一般的な問題解決は、世の中に事例がたくさんあるからそちらに譲るとして、
客観的なものさしや基礎知識で1〜2回読み取っても答えが出ないなら、それは無理に答えを出さないほうがいい、主観の話という可能性が高い。
季節の変化、卒業や就職や転職、それらに限らない心境の変化など、人は状況が変わることで、主観も内心も変わっていく。
そうでなくとも、今すぐにどうしようもないことや、答えのないことは、騙し騙しやりすごしていい。
無理に変えようとすると、ポッキリ折れてしまうから、無理せずありのままを受け入れてしまっていい。
むしろ、理屈で決めきれない問題は人生においてそうそう数は多くない。主観の話は、できる範囲で動ければ、それで十分正しいのである。
またその過程で、客観的なものさしで決断できることと、主観的なウジウジは、疲れない程度に切り分けておくのだ。
客観的に決断できることは、主観にプラスに影響させていくためにも、読書や仕事を通じて精度をあげていく。
客観的な知識がついたり、仕事ができるようになるだけで、少なくとも自信もつくし、お金や地位にも余裕が出る。
その精神的余裕は計り知れなく、活躍した結果、主観的なウジウジを包み込んでしまうことなど多々ある。
極端な例では、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、同性愛者であることや知識層としての苦悩から精神を病み、自殺未遂を繰り返したが、
恩師である哲学者ルイ・アルチュセールから「仕事によって乗り越えていくといい」とアドバイスを受けたとされる。
病院と性という自分に近い問題を研究の対象としたフーコーは、師の言葉に従うことで、生権力という「人をどう巧妙に生かして支配するか」という概念を提示し、苦悩と格闘しながら没していった。
現実解。
ここまでの苦悩があるかないか、哲学者であるか否かはさておき、
客観的に解決できる要素は、ありがたく社会の仕組みに乗っかって解決すればいい。
それだけでは済まない主観的な要素は、決断を思い切らず、客観的に解決できることで支えながら過ごせばいい。
無理に解決させずじわじわと思いを馳せ、妄想と行動を重ねるのも、また解決の道なのである。
追記。
つまるところ後から辻褄が合えば、それでいい。
boxcox.net、遠藤武。