時間を守ることが基本だと、
普段から何度も何度も繰り返しているが、
かつての私は遅刻常習犯だった。
今の私を知る人からすれば、
「え?嘘でしょ…?」
と返ってくるだけだろうけども、事実は事実である。
話は高校時代にさかのぼる。
高校時代にずっと遅刻魔であり、極限まで学校をサボっていた。
ギリギリ留年しないレベルでサボっていた。
当時の感覚を事実ありのまま正直に述べると、周囲の感覚すべてが生理的に合わなかったのだ。
もともと東京23区内で小学生時代を過ごしたが、
そのときから行こうと思っていた都内の高校が、
小学校卒業と同時に都外の他県に引っ越したため、受験できないと判明した。
その程度で腐るほどやわな育ち方はしていなかっため、
そうそうに他県内で代案を見つけたのと、
その他県の地域は父親の祖母が暮らしていたため、
小学生のときから知っている場所で不安はなかった。
受験そのものはとても楽しく過ごしていた。
いっぽう、入学後の結果をお伝えしてしまうと、
何から何まで肌に合わなかった。
何をどうがんばっても、何をどう妥協しても、
メンタリティや価値観やレベル感が、全て自分の見ていたものに合わなかったのだ。
否、がんばって合わせようとした時点で、すべては失敗なのだが。
もちろん、それを理由に遅刻常習犯になるというのは、
全て自分の身勝手であり、全て自分が悪いとわかっていた。
それゆえに、
「もともと東京23区の某所で育った」
という自分の背景を育てた事実は、
その県内ではとうとう一言も触れずに終わり、
言い訳した時点で負けだと腹決めしていたので、
ただひたすら同調圧力に合わせていた。
そのシワ寄せが、遅刻として本音に表出していたのだ。
「自分にとって大事な事実に、意図して触れない」
という発想は化け方のひとつであり、
少しばかりの面白さを感じてはいたのだが、
それ以上に何から何まで、
「生理的にすべてが合わない」
という状況だった。
努力は全て無駄であり、
既存の価値観をアップデートして、
目線を上げることが全てと悟ったのはこの時だった。
とはいえ、
遅刻常習犯が正しいと思ったことなど、
ただの一度もない。
遅刻をしている自分が正しいと思ったことも、
ただの一度もない。
16歳から18歳の自分は、ただひたすら、
「嫌々やっている自分などダメだな」
「環境を変えないと全く意味がないな」
「得意技を作って楽勝できないなら意味がないな」
と、明確に言語化できなかったなりに思っていたまでが事実だ。
だからこそ、その先の動き方については、
「視野狭窄せずこの先の人生で実力をつけ続ける」こと、
「ピークが試験対策や教育過程で終わった半端者にならない」こと、
その上で「楽勝してダントツで勝てる面白い分野」を狙うこと、
「イヤになったら辞めても更にレベルが上がる」ことを仕掛けていた。
要は、ハマれる分野をつくるようになったのだ。
遅刻常習は、ハマれる物事にハマっていたら、いつのまにか消えた。
現実解。
遅刻常習犯というのは、単に目の前の環境がとても退屈だったり、破局的にキャラクターが合っていないというケースもちゃんと疑っていい。
勘違いしないでほしいが、それが理由で遅刻が許されることなどなく、ビジネスでは遅刻は信頼を100%失う。
18歳までで、バカな失敗をしても笑い事で許される段階なら、自分が成長しつづけるための発想として、遅刻常習犯も使いようであるというだけだ。
追記。
この時の生理的な感覚が深く刷り込まれているから、時間について常軌を逸しうるさくなったのだろうね。
ボックスコックスネット、遠藤武。