自分の成長や、大小の失敗からの学習を通じて、
目標を後からアップデートしたり、
目標設定そのものを根本から取り替える必要が出てくる。
これは、成長や嗜好の変化に応じて、子供服を卒業したり、
色気を出して大人っぽい髪型を好むようになることと同じだ。
目標設定のために空想してもいいし、ブレていいし、
その根拠は前向きであってもいいし、後ろ向きであってもいい。
「どうせ無理だ」という言葉を正直に信じるのではなく、
生々しい欲求を目標に落とし込むことが重要なのであって、
「でも、もしかしたら可能かもしれない」という期待感を、
100回でも1000回でも1万回でも懲りずに繰り返すことにある。
「目標設定が必要ない」という人で、成長を続けている人は、
実際には目標を明文化していないだけで、
「もっと面白く、何らかの幸福を感じることをする」
ことを頭の片隅では心がけているに過ぎない。
場合によっては、目標が他人に強引ぶりを押し付けてしまうこともある。
仮にそのような歪みに直面してダメージを受けたなら、
その歪みは、その人にとっての成長の材料だとだけ受け取って、
それ以上考えずにさっさと離れるだけでいい。
また、何らかの理由で、面白さや多幸感がノックアウトさせられ、
悲観的な視点から離れられず、目標設定とそのアップデートがないがしろになったら、
そのような悲観を繰り返す自分をまず認めてやろう。
その半歩先で、悲観や妬み嫉みといった感覚がまだ繰り返されるのなら、
それは足りない知識の回収と、出来る範囲での行動が促されているのである。
目標設定などせず、敢えて刹那的な生き方に賭けることも、
また目標のアップデートやその先の成長も気にしないことも、
悲観的な視点を一生懸命に繰り返すことも、
究極的には自分の人生の選択肢の一つだ。
無理に前向きになろうとするだけでなく、
そのようにひたすら悲観を繰り返して飽きた先に、
突然新たな視点が出てくるかもしれない。
もっと言うと、極めて愚直に、
「今の自分に足りない視点や知識を、即時回収する」
ようにするだけで、次のヒントを得ることが出来る。
後ろ向きにブレたことから何かを気づくとき、
それは次へのヒントにたどり着いたことに他ならない。
自分のためだけに目標や問題を設定することとは、
自分に何が出来て何が出来ないか、
何をやりたくて何をやらないか、
といった要素を丁寧に明かしていくことだ。
それは過去に拘泥することでふと気づくことかもしれないし、
もしかしたら現在に対する悲観が背中を押してくれるかもないし、
将来に対する不安が、ふと行動を招くかもしれない。
どうせなら、死ぬ直前まで空想を繰り返して、
前向きだろうと後ろ向きだろうと、
面白く生き抜いたほうがお得というだけだ。
..遠藤武