大病・浪人・投獄について、
「粘り強さを創る人生経験」
と言い切ったのは、松永安左エ門だ。
この場合の大病とは、
文字通りいつ死ぬかもしれない、
明日があるかないのか分からないほどの病だ。
この場合の浪人とは、
受験や資格試験の不合格ではなく、
明日の生活にも困るほどの窮乏だ。
この場合の投獄とは、
単に自分の私利私欲での逮捕ではなく、
無実の罪で投獄され日常が一転するほどの出来事だ。
「私は粘り強さが売りです!」
もし安易にそう即答できるのなら、
孤独を受容した本質的な粘り強さかどうかを問おう。
現代では、大病・浪人・投獄の3つに加え、
代表的な理不尽である「いじめ」を含めて良い。
この場合のいじめとは、
学校や職場を変えれば済む問題ではない。
嫉妬や村八分などで、日常生活がで成り立たないほど、
しつこく迫害されてしまうことが本質だ。
圧倒的多数が経験してこない、
とんでもなく理不尽な経験から、
不死鳥のような圧倒的な粘り強さが、
ようやく片鱗を見せるのである。
圧倒的な粘り強さについて。
凡人では絶対に気づけないレベルまで、洞察や能力を発揮する人がいる。
そのような人はほぼ例外なく、自分の人生が根本から揺らぐ理不尽を経験している。
私が一緒に仕事をしている社長の場合、
転機は「経営を継ぐ前のサラリーマン時代に鬱状態になったことで優しくなれた」と繰り返している。
私の場合、
もともと本気でやっていて一生続けてプロになろうとしていたことを諦めたとき、
自分にしかできない分野の糸口を見つけた。
当時からすれば、
断腸の思いで諦めるしかないことだったが、
あのまま続けていたら今はない。
理不尽な状態で諦めたことが、かえって自分の人生を好転させ、
あのまま続けていたら、
決して辿り着けなかった世界に導くことなど、よくある。
一つのことに執着するから粘り強いのではなく、あっさり捨てるからこそ、執着が晴れて粘り強くなるのだ。
苦々しいほど理不尽なとき、孤独に一人で学ぶことになる。
実はこれは善でも悪でもなく、その他大勢から抜け出すための実力テストなのである。
一般に経営者はものすごく学んでいるが、
その本質はこのような桁違いの孤独の経験にあり、
ゆえにちょっとしたことから瞬時に学んだり感じとってしまうのである。
もし理不尽な物事を抱えていたとしたら、
実は「孤独になり、独自路線を貫き、感性が磨かれるチャンスだ!」と、
小躍りしてしまうくらいでちょうどいいのだ。
現実解
人間は、本質的には、
孤独でなければ学ぶことも考えることも、
絶対に出来ない。
そう気づけたら、ブレがなくなる。
むしろ今までのブレすらも、武器になる。
そう気づけた日は誕生日より尊い、
生まれ変わりの日なんだよね。
boxcox.net、遠藤武。