データ分析に限らず、「分析する行為そのもの」を捉え直してみよう。
分析を通じて、分析対象を丸裸にしようとして臨んだとしよう。このとき、網羅性が甘かったり、知的好奇心が中途半端だと、「あーあ、この人って中途半端だと自分で気づけていない残念な状態だよね」と、分かる人には分かってしまう。
さらに、これに気づいてしまう人は往々にして、返り討ちに遭ったことすら気づかせてあげずに捨て置く。復習できないので、切り捨て御免より更に厳しい処遇だ。
例えば、
「頭の回転には(根拠のない)自信はあるけど、自分で案件を作り込んでお客さんと話した経験のないコンサルタント経験者」
「自然科学全般が好きで好きで学んでいたけど、やっていたことはカリキュラムの消化ばかりだった、論文の書けない大学院生」
「知識不足のため、部門トップから末端まで、統制がまともに取れていない営業やマーケティング部門」
のように、自発性に欠けたり、カリキュラムや組織の現状にあり方にベッタリして、残念なことになっている人や組織にによく見られる状態だ。
こうなってしまうと、着眼点が「分析対象の現状が、いかに既存の知識に整合するか」ばかりに偏り、「何があるべき姿なのか、その像を持論としてどう提示し実行するのか」という、知見を引っ張り出す分析(あるいはその続きと言える予測)のレベルには到達しない。
「自分や他人の喜怒哀楽はどこにある?」
「歴史的にはどういう事実があった?」
「ここから行き着く先はどんな世界か?」
「これらをどう変えて・保持していけばいい?」
というように、大局観に行き着く過程を探った経験が乏しいと、このような残念な状況に陥ってしまう。
(ディルバートの法則は、大局観から遠ざかった人や組織と関連しているかもしれない。)
無言のうちに否応なく分析が出来てしまう人からすれば、分析しようとしてくるのが好きな人は「言葉遣いから知識の使い方まで、スペックが顔に書いてある」と読めてしまうんだよね。