物事に「ああ、あれは偶然だったよね」という極論を加えてみると、身の回りを風景を楽しめる。
スタート地点から物事を網羅している人や、最初からパーフェクトに特定の分野を出来る人など、どうあがいても存在しようがない。
仮にそう見えたとしても、それは諸々の条件が「偶然の一致がそんな風景を見せた」と言い切れば良い。ハレーすい星を見ることは出来ずとも、偶然ウォッチングを楽しむことができる。
ここで大切な点は「物事を偶然だと言い張りながら、偶然を理由づけとして用いない」ことである。
すべてを「偶然だ」と見てしまえば、偶然に一喜一憂したり、負け惜しみ(やその逆の勝ち傲慢)や、嫉妬に貴重な時間を使うことを回避できる。
その一方で「これは偶然とは言い切れないよね」という対偶にも注目しやすくなる。論理や心情から物事のロジックを読み解き、偶然とそうでない事象とを峻別した上で、法則性を知り見出していけばいい。
同様に確からしい偶然事象も、統計モデルによる法則性も、風景を楽しむがごとく味わうのでなければもったいない。
こうやってわざと遠くから眺めてみると、実は日常に絶景が広がっているんだよね。