大多数の人が、中高生のときに「校則なんて守ってられねーよ!」という思いを経験していることだろう。
校則が事実上ない学校を選べればそれで良い。また、立ち居振る舞いに影響が出なければ特に心配はない。
・どうやったらルールが有効な場(校内だけ)で行儀よく過ごしているように見せかけられるか?
自発的に切り抜けられる人にとっては、校則があろうとも何ともない。
しかし大多数のそうでない人は「第三者の監視の目が存在しないところでは、いくらでもビヘイビアを悪くしても良い」という発想まっしぐらである。
多数に流されてしまう層にとっては、校則や規則の面従腹背によるモラルハザードは、大人のモラルハザードとリンクしている。最も神経をとがらせるべきは、この点だ。
例えば、
という大人は、自分のいる世界のルールすら把握しようとしない。
このとき面従腹背とは「自律心のないオッサン・オバサンの社会的な生産ライン」の始まりなのである。 これは年齢関係なく、オッサン・オバサン化の最たる例だと言っていい。
これを根拠に「最近の若者はダメだ」という、オッサン・オバサンの得意技のフレーズを繰り返すつもりは毛頭ない。
むしろダメなのは、今も昔も「面従腹背でオッサン・オバサン化する大人の側」であり、思考や懐疑のない発想を無批判に押し付けるセンスのなさである。
大人が教育現場にこのような状況を押し付けている理由は、単に「何も考えず何も行動もしない」という、残念な大人の組織の悪慣習を繰り返しているだけに過ぎない。
そこには合理性もなく、知的好奇心も懐疑心も喚起せず、議論の余地もない。そんな情報弱者を再生産するルールの押し付けなど、そもそも無用の長物である。
これと逆に、自由な校風の学校は、
に限られている。
これらの学校は、自己決定権を与えて情報強者を創るための仕組みを持っていると言える(ただし、進学産業が作った仕組みに隷属・服従してしまわない限りは、だが)。
白状してしまうと、一度でも自主・自律・自由を備えた校風を味わってしまうと、単に面白く、そして尊ばれるのでやめらない。
面従腹背する必要がない、知性ある自由は、何にも代え難い仕組みなんだよね。