「あの人は優秀で、自分は優秀じゃないから」
こんな理由付けで、学びや行動の機会をモヤモヤと出したり引っ込めたりする人は少なくない。
これは、できない自分を正当化して守りに入っているだけだ。
この自己正当化を、まず排してしまえばいい。その先には、知識や学ぶ権利が、そして行動する権利が、等しくあなたにあることを意識しよう。
いっぽう、社会階層によって、スタート地点に一定の差が生じるのも事実だ。このとき「不公平だ」と感じるモヤモヤした心理は、明確に肯定しよう。
それはなぜか?
誰かが不公平感を抱くウラに、「不公平だ」とすら思えない(思わない)層が相当数存在しているからだ。
地域によっては、外部の環境で学んで成長する自由と権利の意識がない、そんな閉ざされた住人ばかりであるケースは珍しくない。例えば、地方住まいの人にとっては、都会に移ることは大冒険だ。海外に出るともなれば、宇宙人扱いされてしまう。
学ぶ場も遊ぶ場もろくにない。それが常識で、その地域に骨を埋めるだけ。上記のような場では、そんな人が大多数なのである。
このとき、不公平感という「疑いの目」持てること自体がそもそも貴重だ。
この記事を読んでいるということは、
・現状にイヤイヤ従わされる
・誰かに常識を強要される
・知識のなさを嘆く
という不公平感から脱したいのだろうと信じている。
自分から奴隷のような状況を否定し、嫌な現状に立ち向かうのなら、不公平感まわりのモヤモヤした感覚は絶対についてまとう。
モヤモヤした感覚を「不公平感への疑いの目を生かして、次に進むといい」という信号だ、と思うくらいでちょうどいいんだよね。懐疑心あるからこその感覚だ。