「面白い世界で過ごしたい!」という思いが、知的好奇心の本音なんだよね。
面白い物事にハマり込んで、その先に開ける世界に次から次へと移住できれば、
少しも退屈しない。逆算して次の目的地を導き出すこともできる。
ここで気をつけたいのは、「面白い世界」を「不自由でつまらない環境」が取り巻くケースだ。
それぞれの世界には、勝手に介入してくる「お節介」だとか、組織に従わせたりする「しきたり」だとか、ただ邪魔なだけの中身のない「お邪魔虫」が無数にいる。
(ない場合は「ない」という自由を享受できて良いのだが、「ない」なりに「違和感がない甘い世界」に飽きて邪魔されることもあると知っておきたい。)
この中身のなさを不自由な邪魔者だと喝破し、悪影響をゼロにできればそれでいいのだが、場合によっては無意識レベルで入り込んでくる。
時として感性と知性を鈍らせ、気づかぬままにバイアスを自滅的に埋め込むことになる。
そうなると、せっかくの面白い世界を自らつまらなくしてしまう。
なまじ面白さに没頭していると、「環境としてのお邪魔虫」につい気づけず、
いつの間にか面白い世界を「つまらない世界」だと勘違いさせられてしまう点があるのだ。
ある日を境に失速してしまうのは、エネルギー切れかもしれないし、
環境に知らず知らずのうちに邪魔されているだけかもしれない。
できるだけフェアに物事を見るのであれば、どちらの可能性も考慮しておくといい。
「えっ?自分の世界ではこれが常識であり慣習であり文化だよ?」
という発想が無批判に先行したら、即お陀仏だ。
せっかくブレイクスルーを創り出せるモチベーションと知見と背景があり、
尽きない知的好奇心を「常識」だとか「慣習」だとか「文化」だとか「現状」が邪魔するとしたら、
そんな常識も慣習も文化も現状も「お邪魔虫」だ。
これを無批判に受け入れる意味がない。
このとき必要なのは「お邪魔虫をお邪魔虫だと明示すること」であり、
それは「お邪魔虫 = “[具体的に邪魔してきている物事や要因や環境]”」
として自分からさっさ定義し、さっさと自分から切り離すことだ。
特に、組織立って動く古典的な慣習は、この「お邪魔虫」を誘発しやすい。
伝統的で権威のある物事ほど、無批判なままである傾向が強い傾向にあり、
また、優秀な(はずの)層の組織的な集合が烏合の衆になることも招いている。
この原因は、自由な自己決定に立脚していないという点に尽きる。
自分の頭で定義を決めないということは、知的生産の狙いやゴールを定めないことであり、
それは誰かに言われたことをこなしているだけに過ぎないのだ。
要は「優秀な層が組織的におつかいをしているだけ」と考えればわかりやすい。
他人のおつかいをしているだけなので、自力で決めるという責任感は、本質的には不要なのである。
いかに責任感があろうとも、決裁権者任せに出来てしまうのだから(また決裁権者も、他人からのお使いの指示出ししかしていない)。
「お邪魔虫」を自分から定義することとは、つまらない世界とは何かを明言することだ。
面白い世界の定義の裏側に位置するつまらない世界から、面白い世界が際立って顔を出すのである。
それは具体的な物事かもしれないし、面白い物事とたまたま併存していたつまらない環境かもしれない。
つまらなさが先行したとき、原点に立ち返って、
「面白いものは面白い」「つまらないものはつまらない」
と明言し、物事を定義しよう。
目に見える物事も、目に見えにくい環境も、自分から価値を定義するだけで、
次に何をすべきかという知的好奇心が自ずと浮き彫りになるんだよね。