群れずに一人でいることを、心底楽しんでいる人がいる。
それは「強いから」とか「一匹狼を自覚しているから」ということではない。
圧倒的に自由な自分の世界を楽しんでいるだけなのである。
一人でいるほうが、ちょっとした変化を自分で大きくも小さくも解釈したり、
常識に邪魔されず、巧みに知識を集めて物事を書き換えて楽しめるのだ。
「一人でいて孤立無援にならないかが心配」という発想はいらない。
言語が扱えれば、知識やテクノロジーと関われるので、結果的に何らかの形で人と関われる。
自分で自分を先導し、関わる人を自分から探し求める、そんな自由を持って良いのである。
自分や他の誰かの自由や尊厳を放棄する扇動や扇情でなければ、どんな自由であってもいい。
仮にあなたが、孤立無援で不自由を感じているとしよう。
その時は、自分の知識不足か、周囲の人や環境の知識不足を疑ってみるといい。
知識不足で発言したり行動しても、それはそもそもノイズでしかない。
知識差が邪魔したり、窮屈さを作るのは、お互いに耳障りということだ。
知識不足のままで平気でいられる人にとって、知識不足の指摘はとてつもなく不快だ。
知識が相応に足りている人からすれば、知識不足で話す内容は雑音にしか聞こえない。
知識格差がそもそも壁を作っていると気付ければ、知識で壁を壊してしまえばいい。
また、集団的知識不足は、カビ臭さの始まりである。
特定の文化圏や、特定の社会的属性で、誰も気づかない「同調圧力型のガンコな知識不足」がいくらでも見つかる。
「一人でいること」は、知識とロジックで同調圧力のカビを削ぎ落とし、隙間を作って、次へ抜け出すための要件だ。
逆説的だけれども「一人でいること」を維持したことが発端で出会った人のおかげで、
いちばんの悩みが氷解してしまうどころか、ブレイクスルーが生じることなど良くある話だ。
独創性は、知識とロジックと、その延長にある「これを考えているのは自分だけ」という思い込みから生まれる。
「これを考えているのは自分だけ」が多方面からシェアできてしまうと、
そこに思いがけないエネルギーが確保できてしまう。
悩みが知識としてシェアができてしまえば、解決どころか、ブレイクスルーの始まりなんだよね。