「観察眼」の扱い方

daily0 本音たち。

いまこの瞬間を、主体的に動いているのか?

それとも、主体的だと思い込みながら、

仕組みに取り込まれているだけなのか?

この問いは、ふと突然やってくることもあれば、
気づかないうちに足を踏み入れていることもあれば、
何にも気づかず楽しく(あるいは苦しく)過ごしていることもあるし、
気づいたら脱していることもある。
状況に応じて、納得しながらどちらを往復することもある。
いちばん辛いのは、いくら観察しても、これを認識したくないという具合に、
怖さだけがただただ先行してしまうことだ。
このとき、少しでも楽になる方法を見出すなら、
それは「一次資料としての体験」を増やす以外にない。
知識を増やすにしても、自分自身の強烈に体験的な問いを据えるべきである。
トラウマやコンプレックスや疑問点のような主観は、
れっきとした一次資料であり、それを根底に据えて観察することでしか、
自分オリジナルのブレイクスルーや問題解決を紡げないためだ。
天下り的な教条の連呼にこだわっている人は、
自分で主体的に観察する側に回っているように見せかけて、
誰かに主体性を奪われた被観察対象であるだけなんだよね。
遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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