芸術家。

daily0 本音たち。

美術にせよクラシック音楽にせよ、
芸術家は、ただ単にレッスンを受けて技術をつけるだけでは、
職業として食べていくのは難しい。

生まれてから高校生くらいまでのあいだに、
親と同じくらいかそれ以上の年齢の美術家と音楽家に、
掛け値なしに関わる機会に恵まれた。

その結果知った事実から言えること。

美術家は、独自の世界観を突っ走るやさしさがあった。
音楽家は、プロオーケストラにストレートで入る優秀な方だった。
どちらも、とんでもなく純粋だった。

美術家は、今もなお独自の世界観を突っ走っている。
自分の受験のときに「絶対合格」と絵を書いてくれた。
後に自分で古典を読んでいてビアズリーの絵を見たとき、
「なるほど、こうやって古典から美術にアクセスするルートを作ればいいのか」
と思いっきり腑に落ちて、嬉しくなった。
その美術家さんもビアズリーに影響を受けていたと読み解けて、さらに嬉しくなった。

音楽家は、本気でやる遊びのために、
プロオケ業の傍ら、頻繁にレッスンを施しに来てくれていた。
出身校で部活を創部し、そのまま音大に行きプロオケに入って、
20年近くも出身校に教えに来ていた。
フィーも全然取らずにタダで、しかも音大の同期のプロ奏者を連れて。
プロが本気でやる遊びという、どこか余裕のある気迫を日々感じ、ただそれだけで嬉しかった。

美術家は、ウェブサイトの絵を見れば見るほど、
今のアウトプットを見れば見るほど、当時も今も変わっていない。

本音の世界観がひしひしと伝わってくる。
自分にとっては、昔も今も教養という名の情操教育の先生ということだ。

小学生や中高生くらいの当時はそんな意識ゼロだったけれども、
今思い返して作品を見ていて、さらに自分で古典や美術史を読み解いていると、
それがとんでもない情操教育だったと思い知らされてしまう。
これを掘り下げるだけで、際限なくアウトプットができてしまう。

音楽家の人らは、もうプロオケを引退しているが、
そのあとを見聞きする限り、当時も今も変わっていない。
「自分は第一線どころか、二線三選もいいところだよ」
と、本音が話せて少し嬉しそうに苦笑していたことを、ふと思い出す。

プロオケ界隈に関わって裏側を少し知ったとき、
「マエストロ(指揮者)とソリスト以外は、サラリーマンっぽいなあ」と感じ、
一次情報を知ってしまった自分に、そう種明かしをしてくれたのだ。
これを掘り下げるだけで、際限なく気づける物事がある。

芸術とは、つまらない言い方をすれば、
自分の世界観を切り取って、
見聞きできる形として表現することでしかない。

いっぽう媒体としての芸術には、
沢山のヒト・モノ・カネ・情報が関わっていて、
さらにいろいろな思惑が混沌と取り巻いている。

そこに入り込む

それらを虚心坦懐に、裏表や古今東西という視点から眺めれば、
どこからでも成長・発想が出来る機会を得られる。
いっぽう、芸術も群れてしまえば、
時としてサラリーマンと何も変わらないということを、
これでもかと思い知らされた。

芸術を専門分野としない財界人や研究者で、
大学生くらいまでで美術や音楽に関わった人は、意外と多い。

そんな人らの現実を正直に言ってしまうと、
「これじゃあ確実にプロとしてやっていけないよね」
「単にお客さんとしてレッスンを受けていただけだよね」
という程度のレベルなのだ。

それを超える人は、まず見たことがない。

これはつまり、スタート地点から「お客さん側」だったということだ。

彼らのその後の動向含めて見てしまうと、取り巻く思惑に惑わされ、
素直な表現を志した形跡が全く見えない、と結論づける以外にない。

自分も音楽を本気でやろうとしていた時期がある。
「音の出方が君は他の人と違う。いつでも来てよ」
とプロのスタジオミュージシャンから高評価してもらった。
プロ奏者を多く輩出する大学サークルからの、人生初のヘッドハントだ。

これが究極のお世辞だったとしても、それでよかった。

甘ったれたお客さん扱いではない。

その事実だけが死ぬほど嬉しかった。

当時の自分はクラシック音楽に傾倒していたことと、
自分の課題も才能の限界も完全に見えていたことから、あっさりと断った。

自分は、そのまま楽器も音楽も手放した。

それが天命だと気づいたのだ。

面白いことに、その数年後、
同級生や後輩が、プロの音楽家としてブレイクしている事実が複数も出てきている。
うち一人はある大物ミュージシャンの再来と言われている、とんでもない声の持ち主だ。
うちもう一人は、とあるソウルフルなバンドのギタリストだ。
さらにもう一人は、日本を代表するダンスユニットのリーダーをやっている。

そんなとんでもない声のヤツより、
そんなとんでもないギタリストのヤツより、
そんなとんでもないダンスユニットのヤツより、
自分のCDデビューが思いもよらぬ形で10年ほど先だというささやかな事実は、
音楽を手放さず継続する彼らへの尊敬の念を心底抱きつつ、ほんの少しだけ心の中で誇りにしている。
美術家と音楽家が、一次情報として存在してくれることと同じくらい、大事な支えだ。

このような、純粋な尊敬ベースの誇りや心の支えは、表現も新しい世界の発見も助けてくれる。

自己表現は、その瞬間だけでも自己肯定感が得られ、
その次の瞬間には「もっと表現して満たされたい」という欲求が出てくる、
そんな行間からの気迫がほんのりにじみ出てこそ、初めて成り立つ。

端的に言い切れることについて、技術に乗せて、
いろいろな切り口から何万通りにも繰り返せるのは、
ついつい出てしまう表現欲のなせるワザだ。

学ぶことも、表現することも、成果を出すことも、
外ヅラばかり気にする時間はもったいない。

表現のための表現で、脳裏から出てきた世界をそのまま切り抜くくらいじゃないとね。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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