「今の世の中は、問題解決ばかり溢れている」
「問題そのものの希少性が上がっている」
これは一見正しいように見えるが、
正確には、
「問題提起する上で、本音や妄想や知識が足りない」
という言い方までが実情だ。
今回は「中央経済社さんのnote連載内容」の解像度上げ。
ふと思い返す。
仕事と遊びの区別はそもそも意味がない。
確か小学生か中学生くらいのとき、
そう説いていた本を読んだ。
当時はこれを綺麗事や絵空事だと思っていた。
確か大学受験くらいで、
自分が「働く」と向き合うに際し、
「自分の本音は『働きたくない』ということだ…」
と、妄想のごとき本音で、悟ってしまった。
これは読書の影響もあるが、
周囲にいた作家や音楽家や美術家といった、
身近な大人の影響が大きい。
これらの身近な人たちは、
「人と同じことをやるな」
と異口同音に教えてくれていた。
その大人の子供らや、
同じコミュニティにいた子供らは、
自分と同世代ということになるが、
彼ら彼女らは自由な立場で、
文筆や音楽や創作まで、
仕事にしている。
率直に言うと、これは想定していた通りだった。
「おそらく周りに自由業が多発するぞ」
「半径1〜2mにいた中から、突出する人が複数出るぞ」
5歳から小学校卒業までを、
谷根千で過ごしたときからの予測だが、
これは谷根千から離れた後のコミュニティでも、
当たりつづけている。
もっと言うと、
この「予測の範囲内の自由業」は、
自分には100%向かないなと直感していた。
「人と同じことをやるな」
その教えが基礎だとすると、
みんな揃って、
「自由業という、人と同じこと」
をやりたがって、
かえって不自由になると予測していた。
不自由になると自分は100%負ける。
負けないためにも、
当時住んでいた地域の価値観を、
ポイ捨てする必要があった。
とすると、
大学の選び方から、
専門分野まで、
生涯を通してピュアに成長できるためにも、
物事に対して徹底して素直になり、
かつ怨念のような捻くれも素直に受容し、
素直と捻くれの矛盾を乗り越え、
本音の妄想を形にする以外になかったのだ。
例えば、仕事の話。
キャリアは大事だと思っていた。
同時に、
キャリアなんてそもそも、
共同幻想だとわかっていた。
嫌になったらいつでも辞めていいように、
でもあっさり次が見つかるように、
かつ待遇が倍々ゲームするように、
下ごしらえをしつつも、
直感で動いた。
その結果、
下ごしらえの予測は当たった。
更に自分の武器を、
まるでゲームで遊ぶかのように、
「データ分析」として形づくった。
無茶苦茶な矛盾だけど、
妄想がそのまま、
解決につながるように、
行動したことになる。
現実解。
妄想できないなら、
ゴールも見えないため、
行動も甘くなる。
問題解決って、
こうやって自分なりに、
「本音の妄想から問題提起する」
ことが必須なんだよね。
「データ分析は、先に妄想ありき」
という持論を繰り返しているのは、
妄想がなければ、
実現したい物事もなく、
解決したい問題もないからだ。
それじゃデータ分析なんて、
ただの現状追認で、
何も面白くない。
せっかくなら事実を見た上で、
現実逃避から妄想し、
それを行動につなげ、
現状を打破したほうが面白い。
追記。
これは企画の進め方でもある。
そもそも、連載企画も、
「できたらいいなあ」
「またやりたいなあ」
という妄想が、はじまりだった。
boxcox.net、遠藤武。