本音を出すには、実は繊細さと下準備が徹底的に求められる。
だからこそ、敢えて1回だけ出すストレートな本音に価値が出る。
不用意に本音を晒しても、一方的で安っぽい暴力にでしかないことに注意。
この意味。
そもそも、相手の本音に気づけないなら、
こちらがいくら本音を出そうとも、
何を言っても言葉の殴り合いにしかならない。
相手に本音を伝えても、
相手が受け取って読み解いて行動する気がないのなら、
お互いに後味の悪さしか残らない。
いくら本音を繰り返し言い続けようと、
それを相手の心に送り届けることが出来なければ、
退屈な勧誘や営業にすら劣ってしまうのである。
これをわかっている腕利きの経営者は、
日本人だろうとそうでなかろうと、
「建前も本音のうち」にしてしまう。
それだけ思慮を巡らせて喜ばせているとも言えるし、
関わる人を限定させているとも言えるし、
このどちらも当てはまるのが、
この場合の本音の伝わり方である。
誰しも本音と建前の壁をなくす必要はないけれど、
「自分が果たしたいことは何か」
「自分が幸せを感じることは何か」
ということを問わずにいると、
ありがちな「暴力的なストレートな本音」に流されてしまう。
ストレートな本音が常に暴力的とは限らないが、
不用意のままであり続けてしまうと、
ストレートな本音が衝撃を与えると気づけない。
敢えて1回だけ出すストレートな本音は、
その衝撃から掴み取りたい新たな視点や、
その先の人間関係の破壊と創造があるからこそ、
価値が浮き彫りになるんだよね。
必要がない場面や関係では、一切出すまでもないけれどもね。
..遠藤武