「あの人は○○だ」「あの組織は○○だ」「あの分野は○○だ」
このように評論をしたいなら、強みと弱みの両方をすくい取ろう。
そうでないなら、評論ではなくヨイショや僻みやでしかない。
現実解。
褒め称える声がどこから来てどこへやっていくのか、
バッシングの声がどこから来てどこへやっていくのか。
この両方を、常識と非常識から捉えなおし、
その上でようやく自分の視点を盛り込むのである。
評して論じるのであれば、一面から物事を見ても意味がない。
もっと全体から細部を見て、細部から全体を見る。
適宜、大胆なアップデートをし続ける。
「なぜ自分は/他人はこう捉えているのだろう」と問い続ける。
そんな知的・精神的・感情的な余裕がなければ、相手の思うつぼだ。
自分が発言するのであれば、対象に対し、
「わざわざ名指しで言及する意味があるかないか」
について、まず答えを出しておく必要がある。
もっと言ってしまうと、
評論家のフリをした宣伝が嫌いなのであれば、
そのようなヘナチョコ評論家を利してしまうだけだ。
ヒステリックな暴言で騒ぎ立てるだけでは、
自分の貴重な時間を使って、
醜い炎上芸に加担してしまうだけだ。
それよりも、自分の世界を自分で切り開くための、
立派な材料として活用させて頂いたほうが、
気を楽にして実績を作ることができる。
尤も、学問や政治での論争については、
それが人の生き死にや自由・不自由に関わってくるため、
歴史が示す通り、この限りではない。
だからこそ、見え透いた炎上芸やマーケティングが、
余計にカッコ悪く映ってしまうのだけれども。
余裕を持って行動するのならば、
退屈でカッコ悪くなってしまう状況は避け、
冷静だけど冷笑しない「議論」を心がけたいよね。
..遠藤武