「こんちくしょう!」
仕事や学校で理不尽を感じたことは、誰しもあるはずだ。
理不尽さについ直情的になる気持ちはわかるが、一歩引いて眺めてみよう。
世の中から理不尽が消えることは、そもそもない。
だからこそいっそのこと、理不尽を逆手に取るのだ。
組織内の権力争いも、貧富の差も、人間の歴史や科学の発展と共にずっと続いてきている。
特定の分野における才能の有無は、偶然の出会いがあったり、実力者や成功者に目をつけてもらって成り立ったりすることから始まる。
勉強家であることはとても重要だが、才能発揮や富むことは、優等生であることと全く無関係だ。
であれば、勝ちやすい場所で楽勝するための苦労をすることが、全てにおいて勝るのだ。
理不尽とは「これ以上こだわっても無駄だから、角度や見方や行動を変えてしまおう」と教えてくれる、僥倖(幸運のしるし)のことだ。
理不尽を真っ向から受けていると、心か身体を壊すことになりかねないが、それは一病息災であり、かえって身を助けるのである。
変に優等生のままでいると、意気消沈してしまったり、理路整然と嘆きがちだが、それはもったいないのである。
せっかく実力があるのに、世に出ず終わる優等生は後を絶たない。
それは一病息災が身を助けるどころか、一病の悩みすら消えてしまうことを知らないないためだ。
そういう人ほど「あんなのずるい」「あいつは邪道だ」というような、中身のない批評家で終わってしまう。
その心は、
「こんちきしょう!」
があるにも関わらず足踏みしたままの、僻みなのである。
現実解。
そのような人生で終わってよいのであれば、僻みで埋め尽くせばよい。
そのような人生で終わるのがイヤであれば、素直に僥倖に従えばよい。
どうせ理不尽は誰からも消えないのだから、理不尽を「待ってました!」とばかりに面白がるくらい少数派に立つ方が、結果として活躍のフィールドも増える。
本当に「こりゃマズい!」という物事について、前もって避けることができるくらい、余裕を持つことも可能だ。
boxcox.net、遠藤武。