そもそも「投資」とは、
自分の立ち位置を上げることであり、本業が成長すること全般のことのはずだ。
investmentの語源に「服を着る/着飾る」という意味が中世から近代にかけて込められ、
それが転じて「投資する」という意味になったのは、素直に頷ける。
そうではなく、
なけなしのお金を、株式やFXなどの金融商品や、貴金属などのコモディティや、
不動産などに費やしてしまう時点で、投資を煽る勢の良いカモなのである。
これは着飾る以前に、カッコ悪いと言うしかない。
さすがに現代では単に着飾るだけでは厳しいが、
自分の立ち位置を高くするためにお金や時間を投じ、
脳みそや行動をプラスにしていくというのは、極めて理にかなっていると言える。
もちろんだが、基礎が足りていないとか、
煽り屋、群れさせ屋、情報商材屋、詐欺師にコロッと騙されるのは論外である。
この場合、まず投資すべきは、義務教育や高校レベルのリテラシーだ。
それを欠いてしまうということは、
信頼できて真似する価値のある情報源を引っ張れず、
投資以前の話であると、ありのままを認めるしかない。
あるいは、義務教育や高校レベルのリテラシーどころか、
大学や大学院レベルや、それを超えて専門家としての実力があるのに、
どうにもこうにもうだつが上がらないと言う場合は、
世間の大多数は、
「義務教育や高校レベルのリテラシーがない」
という事実をありのまま認めるところから始めるといい。
そこからポジションを作るために、自分の価値を整頓することに、異分野の書籍などを読んで投資するのである。
要は売れるコンテンツや知見というのは、
「リテラシーがない人向けに作られたもの」
であり、それはある種の暴露にすら似ている。
それもそのはず、誰かが描かなければ、
本当に必要な知識があり、それを心底必要としているにも関わらず、
たまたまリテラシーがないゆえにとうとう得られず、
解決策も知らずに死んでしまったというのでは、
何ともやりきれない話である。
逆に言えば、このラインを狙えば、「他の人の知的投資」の先生になれる。
内容が練られており、そして売れるものというのは、
「知らなければ、死んでいたかもしれない……」
「基礎がなければ、死んでいたかもしれない……」
というくらい、強烈なインパクトを淡々と与えるものなのだ。
現実解。
これを笑い事・他人事・遠くの話として気にせず放置するか、
これをギクリ!と気づくきっかけに変えて行動してしまうかは、
自分で100%決めればいい。
ひとつ言えるのは、
行動が減れば減るほど、
多数派に取り込まれるほど、
優等生として既存を踏襲すればするほど、
かえって鈍して貧してしまうという事実だ。
本当に優秀な人も組織ほど、
既存のあり方を大胆に否定していて、
そのおかげで更に突出していくから、
もっともっと成長していくのである。
多数派に取り込まれることをあっさりやめ、
変わり者として依怙贔屓をベースに生きるほうが、
実は全てにおいてプラスなのである。
投資とはそうやって変わっていくためにする営みであり、
その他大勢ではなくなるための創意工夫だと知っておくことで、
チャンスを掴むきっかけを、自分からあっさり作ることができると断言しよう。
boxcox.net、遠藤武。