多くの人がついつい直感的に誤ってしまうのだが、
本音が価値を生むのであって、議論や多数決からは価値は生まれない。
誰かが価値となる第一声を上げたところから、後付けで議論が起こるのだ。
第一声が新たな切り口の技術なら、それは科学やビジネスの発展につながる。
失敗から手法が出てくることなど当たり前であり、
とんでもない傲慢や欲求といった本音を昇華し、価値が出ることも多々ある。
「落としても壊れない時計」という一言から、大ヒット商品が出ることもある。
要は、新たな切り口は「正気か?」と言われかねない主観だらけなのだ。
お察しと思うが、エモーショナルな主観や失敗や本音を活用して価値を出すことは、ロジカルを極めた議論や多数決と、そもそも相入れない。
理屈が正しくとも、感情的に「イヤ!」と思う物事に、人は誰も関わりたくないためだ。
ビジネスだろうとラブレターだろうと、すべてが理屈で書かれていたら、誰にもピン!と来ない。
ピン!と来ないものを世に出しても売れるわけがないし、恋愛なら嫌われて終わりである。
ここに議論の余地はない。
「ウソだ!議論する意味があるはずだ!」
という真面目な声が聞こえて来そうなので、書いておこう。
議会や裁判所がひたすら議論をするのは、価値を生むためではなく、生まれた価値を法律や判決の文脈に乗せる手続きである。
手続きだからこそ、徹底してロジカルに定義や解釈を加え、客観視するのである。
手続きとは、仕組みに乗っけて応用可能にすることであり、価値をゼロから作ることと真逆だ。
真逆だからこそ、徹底して本音と向き合い、言葉や形として主観を価値に変えるのである。
現実解。
本来の価値とは、愚行ができるくらい(かつ犯罪や非行に走らないくらいの知性がある)、徹底した自由から来る。
ついつい思いが止まらない物事に対し、理屈を後付けするからこそ、価値が出てくるのだと覚えておこう。
boxcox.net、遠藤武。