「チープな流行りの娯楽など触れないほうがいい!」
「一定の価値あるものに触れるべき!」
これには非の打ち所がないし、単なる流行りは懐疑的になっていい。
とはいえ、流行り物がついつい気になって、
ついつい推してしまうのは、
人間のサガというのもよくわかる。
正論ばかりでは、退屈だ。
だからこそ、ストレートに言ってしまおう。
流行り物は、仕掛ける側が生々しく周到に、ターゲットとなる消費者層の特性を突いてプロモーションをしている。
まずこの事実をちゃんと知っておくべきである。
そして、流行り物はどこかに元ネタがある。
推しも、例外ではない。
例えば、実際に日本全国規模をカバーするテレビCMやプロモーションに関わるとわかるのだが、
どのような年齢・リテラシー・年収・性別・家族構成・性格で、時にどんなコンプレックスがある人を対象にするかを逆算し、
CMの内容、起用するキャラクターや人、露出するメディア、ゴーストライター…をセットしてお金を使っている。
そのように多数の人をやすやすと誘導して推させるに際し、MVVや思い入れなどどこかに消えてしまうのは、単にお金だけで価値が動いているためだ。
ゴリ押し広告が怪しいのも、動画配信だけやSNSだけの人が怪しいのも、実力などゼロで、単にお金だけで価値が動いているためだ。
言うまでもないが、実力がある場合、上滑りしたお金での無価値な殴り合いなど無縁である。
この事実に腹落ちして「そんなの気持ち悪い!」とか「そうだったんだ…」と感じたなら、その人にはセンスがある。
大多数の人は、そもそも何も疑いもしないし、見たくない事実など秒で無視する。
とすれば、せっかくセンスがある少数派なら、怪しく気持ち悪いことなど無視して成長できる強い少数派になるほうが、人生が面白くなるのではないだろうか。
センスがある立場であれば、どうせ推すなら自分自身を推したほうがいい。
成長とはそういうことである。
「自分自身を推すなんてちょっと…」と感じるなら、身近で敬意が持てる誰かを助けたほうがいい。
「身近にそんな人などいない!」というなら、自分の人生が1ミリでも理想に近づくための、直接的なカッコつけに時間とお金を使うほうがいい。
少なくとも、誰かがお金でゴリ推すように仕掛けたものではなく、自分の人生が直接プラスになるような形であれば、散財ではない。
例えば、まっとうな実績の人が書いた本から学ぶなら、単なるコンプレックス煽りの浪費とは異なる。
その中から、ついつい楽しく充実してハマれるものを探り当てておけばいいし、そのために悩んでもいい。
自分のサガから逆算すれば、少なくとも「推し」の感覚を保ったままプラスを作れるが、いかがだろうか。
現実解。
価値が唯一無二なのは、いまこの瞬間に悩みながら行動する自分自身だよ。
boxcox.net、遠藤武。