人格陶冶(じんかくとうや)という言葉がある(「統治[とうち]」ではなく「陶冶[とうや]」である。念のため)。
字義の通りに言えば「善い人格を練り上げる自己研鑽」と言えるだろう。
目先の字義を超え、一切偉そうにせず噛み砕いて表現すると「その人のすごい!がにじみ出た知性ある行動」と言い換えていい。
「あのときあの人が私を心底応援するためにかけてくれた言葉で、私の人生が好転した」なら、言葉をプレゼントしてくれた人から、すごい!がにじみ出ている。
「あのときあの親族が私を心底認めて学費を出してくれて、私は作家になれた」という思い出があるなら、学費を出してくれた人から、すごい!がにじみ出ている。
これらは、いずれも応援という人格陶冶の賜物であり、一定以上のリテラシーや知識があるからできる。
これは単に「人がいい」というだけでは無理であり、目の前にいる相手が何を言われたら(してもらったら)喜ぶか、そのためにどんな知識が必要か、そのためにどれだけお金が必要か…という変数が生じる。
ということは、人格陶冶とは、人間的・科学的・社会的な物事すべてを材料にして成り立つ、クオリティの高い金属加工や陶器のようなものである。
人間的に面白く、科学的な知識や探求心があり、社会の仕組みに通じていれば、その人はとてもしなやかであり美しい。
少なくとも、その人がとても元気なうちに何らかのすごい!が、実力通りの成果として出ているはずである。
現実解。
人生の最後のほうで都合よくわざとらしく自分を大きく見せるのではなく、
元気なうちに人格陶冶から成果を出すことが、生きている人間の成すべきことだ。
「終わり良ければ全てよし」ではなく「始まった時から終わりがなく、ずっと残ってずっとよし」が本質なのである。
追記。
断っておくが「人格者であれ」のような、三流四流マナー講師程度で言える、デカデカした正論を言いたいのではない。
その真逆で「人間性や知性など、知識や地位によって後付けで形作れば事足りるから、極力学ぶことを怠るな」である。
それがあって初めて、目の前にいる人を心底喜ばせられるのだから。
追記の追記。
僕が今こうして商業出版を含めて大活躍していられるのは、あなたがいちばん最初から最後の瞬間まで、人格陶冶で僕を助けてくれていたからです。
ありがとう。
boxcox.net、遠藤武。