自己啓発の胡散臭さの根本は、一方的な暴力のような視点にある。
ナポレオン・ヒルでも、デール・カーネギーでも、ノーマン・V・ピールでも、あるいはそれ以外の自己啓発書の著者や取り巻きでもいいが、あなたが胡散臭さを感じるすべての物事は、画一的で退屈に押し込む暴力である。
気持ちがスッとする要素はさておき、粗暴で投資対効果が見えない知識や知見について、「怪しい」「胡散臭い」と評する以外にない。
そう評価したはいいが、さてどう扱って、行動や知識に落とし込もうか。
気持ちがスッとするなら素直に使えばいいが、スッとする整頓そのものは手垢がつき放題で、答えは出尽くしていると言っておこう。
まず、教育心理学や認知科学や発達心理学や哲学や宗教学…といった学問分野で、全てカバーできてしまうのが、そもそもの自己啓発の特徴だ。ここには暴力はない。
胡散臭いものは、上の知識を無視した、根本的に雑な理屈で「俺の常識はこうなんだからお前もこうしろ」という甘ったれの暴力を晒すからこそ、胡散臭さを放つのである。
ここまでが答えであり、扱い方の基本である。
出尽くした基本的な答えを、更に読み解こう。
「富の創りかた」を論じた起業家・技術者であるポール・グレアムを引っ張り出し、胡散臭さを照らしてみよう。
「言語を使って、空間と時間とユーザの需要について、充足を果たし、価格を上回る価値を創る」という基礎は、今も昔も変わらない。
これは現実の時間と空間の整頓であり、暴力ではなく実力を発揮しているだけで、胡散臭さとは関係ない。
例えば、プログラミング言語を介したサービスだろうと、日常の言葉を用いたコンテンツだろうと、「ユーザーの幸福度や価値や利便性を高める」という、現実解の提供で共通している。
単に「掛け算」してチカラを発揮しているため、暴力とは真逆ということである。
また「テクノロジーや経営といった知見や一次情報を徹底して精査し、サービスから実績が出ているから信用できる」という現実的な視点は、シンプルに安心感を与える。時間をかけて系統化されていれば、なおさらだ。
いっぽうその逆で、新しすぎる技術は未成熟であるがゆえに「胡散臭い」「マネタイズしきれない」「レベルの低い」人ばっかりが群れて暴力に走ることがある。SNSでオンラインサロンを運営している人が、やたら短気で粗暴な事実を受容しよう。
成長しようがない新規事業立ち上げごっこだとか、売り出している書籍が怪しく思えるのは、常識外れを巧みに操って、暴力でごまかしていると考えれば一発で理解できる。
また、値段が高い割に投資対効果が見えない(ただし心理的充足ばかりが強調される)セミナーや情報商材や、個人的な経験とか論文のコラージュを集めた「知見のようなもの」は、悪い意味で常識を無視した「胡散臭い」である。チカラにならない粗暴なウソの知見でお金を巻き上げるのは、暴力のあり方だと言っていい。
常識を的確に疑っているのではなく「俺の常識はこうなんだから丸呑みしろ」という、悪い意味でジャイアンのような暴力的なメッセージが強く込められているし、それを信奉している人もいるのである。
個人的には、こういう胡散臭いものは嫌いではない。善悪を超えて胡散臭さを描写しきれば、それは立派な作品になるためだ。
しかしはっきり言うが、単に単に書き手や作り手の実力の低さをごまかし、見掛け倒しの暴力に依存しているだけという不徹底や不足が、胡散臭さの本質である(だからこそ学ぶところが多くあり面白いとも言えるのだが)。
技術や知識で言えば、心理学・文学・演劇・詩歌・宗教学・社会学・芸術・数学・統計学・工学・マネジメント・マーケティング…という現実的に有効な知識の組み合わせで、言語と心の操作から、人間の立ち居振る舞いまで、すべて掛け算でカバーできてしまう。これらは実力であって、暴力ではない。
どれだけ信奉する人がいようとも、ある種のリバースエンジニアリングで掘り下げができてしまう程度でしかないのだ。
成長に貢献する豊かな知識と知見は、常に現実に存在してきているリベラルアーツで全て済むと言い切れば、話は早い。
ここまでで言う胡散臭さの害悪を、
「事実に則していない、具体性と応用力がない、立ち居振る舞いが悪い、知識が足りていない、薄っぺらい」
と、改めてぶった切ってしまおう。
とすれば、胡散臭さとは要は「素行の悪い現実のごまかし方」だと言える。
粗暴で粗雑にリソースをかすめとる割に信奉されるというのは、そういうことである。
もっとシンプルに「だまし」と言ってもいい。
常識を疑ってもいないのに、常識を疑ったフリをして、中身がないことを素行悪くごまかしているために、自己啓発について「これって胡散臭い!」という感想が後を絶たないのである。
もっとも「常識を疑って物事を変えていき、胡散臭さを除いて自己啓発すること」について、害悪と言い切るつもりは、これっぽっちもない。これは単に、大学初年度で知るレベルの教育心理学とか行動分析学での「強化」「弱化」の話だ。
何か事を成す初期段階では、大きく自己肯定するとっかかりが必要であり、非常識と罵られるくらいでちょうどいい。受験勉強でもビジネスでも同じことが言える。現実を変えて実績を誇る多くの人と同じで、現に私もそうやって実績を叩き出してきた。
具体的に私が関わってきた分野を見ると、年売上高が兆円規模〜数千億円〜数百億円の大きい企業から、数十億円〜数億円〜数千万円の小規模な企業までの、経営層・大規模プロジェクト・新規事業立ち上げが挙げられる。いずれも心理的に言えば強化や弱化を関係者と愚直に重ねて、かつ具体的な知見を織り込み、結果を前向きに出すだけだった。
ビジネスの推進には、技術と常識もさることながら、非常識や不確定を織り交ぜる必要が常にある。
グレーな未来を照らして拓いていくことでしか、現実に価値は出ないからだ。
ちなみに、そのレベルまでカバーすれば、かすめとる必要など全くない。
勘所として、常識と非常識を適切に織り交ぜることが重要だとわかった。
いっぽう、ニッチな分野だったり、未成熟な分野である場合、「単に素行の悪い非常識なだけ」でもお金集めを進められてしまう。
これが、かすめとるスキームだ。
注意したいのは、非常識「だけ」ではどのみち現実も事実も直視しておらず薄っぺらいままということだ。
「非常識になれ!金持ちになれるぞ!」と言われて、銀行強盗や詐欺をはたらくのは、どう考えても薄っぺらい。
ずっと非常識に傾き続けるということは、逆説的にワンパターンなルーチンを繰り返すしかなくなる。
情報商材や炎上マーケティングが嫌われる理由と同じで、胡散臭さのカギは、このような「既に常識と化した手垢まみれの非常識」という、知識と思考と行動の薄っぺらさにある。
であれば、胡散臭さに対し、何をすればこれらを包み込んで更に上に進む価値を作れるのか。
それは素直に疑って「この胡散臭く見える人は、本当に幸福なのかな?」と事実を問うことである。
まるで子供のように「王様は裸だ!」という事実を、ポロっと言える素直な人は、素直に疑うチカラがあると言っていい。
素っ裸で無一文から成功したのなら、素っ裸で無一文だったコンプレックスは、どこかで「今となっては昔話だよね?」と素直に問うて、さっさと捨てる必要がある。過去のいじめも、同じ扱いで許してしまえばいい。
非常識で成功したのなら、非常識を疑う必要がある。そうでなければ、その人は素っ裸で無一文の過去に泣き、非常識の過去に泣く。
成長が停滞する裏には、こんな頑固な事実があると知っておけばいい。
詐欺師は、わざわざ「私を疑いなさい」「損しなさい」とは言わない。むしろ、過去の栄光の良いところだけをねちっこく頑固に見せつける術に長けている。
仮に非常識ばかりで成功しても、過去の栄光にすがる「胡散臭いだけの人」で終わり、立ち居振る舞いが浅くなるのである。衰退をごまかすのは、現実解がない、胡散臭さの特徴だ。
非常識が非常識ではなくなってしまえば、その非常識はもはや非常識ではなく、賞味期限切れの「常識らしきもの」と言うしかない。
過去の栄光頼みという賞味期限切れで終わらないためには、常に虚心坦懐に現実から学び続ける必要があり、抜本的に変わっていく必要がある。
プログラミング周りの技術は、日々の進化が早く、品質管理がなされるために、そもそも「過去の栄光に技術だけですがる」ことが難しい。マーケティングは別だが。
日常の言葉で表された自己啓発書は、過去から何度も読みつがれてしまう。そこにはどうしても、過去の栄光が見え隠れする。
それはそれでメンタル面でもビジネス面でもプラスの威力があることは、素直に認める。むしろ、アップデートされない中途半端さや過去の栄光があるからこそ、そのグレーゾーンが購買意欲をかきたてて売れてしまうとすら言える。
プラスにアップデートさせる目的で、お金を払うかどうかは、投資対効果次第だろう。
数千円の本1冊の、たった1行から人生が救われたのなら、それは素晴らしい読書体験だ。モヤモヤしたグレーゾーンとの格闘は現実解の種であり、十分にお金を払う意味がある。
哲学書も聖書も四書五経も、数学書も、小説も、詩歌も、自己啓発書も、読み手の成長を支えるのであれば、等しく価値がある。そもそも無差別級であり、ジャンルはあまり関係ない。
プログラミング言語で書かれたアプリも、自己啓発書も、役立つと感じたら、好きなものを好きなように活用すればいい。それそのものに大した金額はかからない。
セミナーの値段が高いなら、その値段に見合った投資対効果を具体的に腹落ちした上で、お金を払う・払わないを決めればいい。
もちろん、怪しくて嫌いなものにお金を払う必要など一切ない。個人的には、売れ筋でもマイナーでも、怪しい本は「お賽銭」「お札」「おみくじ」と捉え直して買って読むことが、頭の可動域を広げるストレッチとしてたまらなく好きではあるが、これを嫌いなのに無理してやる必要はない。
対応策は、その程度である。
現実解。
「だまし」「かすめとり」に注意しつつ、
「ユーザーの幸福度や価値や利便性を高める」という、地に足のついた観点から捉えなおそう。
下品さや薄っぺらさでごまかさずに成長していく人は、少なくとも「胡散臭い」ものに関わらずに、死ぬまで成長していける。
付け加えると、全ての知識は、掛け算で創れると知っていれば、現実解への投資対効果は誰でも測れるし、疑うこともたやすい。
追記。
単なる掛け算ではどうしようもなく、そしてどうにも矛盾して割り切れないなら、「本音」に寄り添ってみよう。
ロジックや知識だけでは完成しきれないパズルで、ラストピースが揃うのは、情に報いた本音があるからなんだよね。
boxcox.net、遠藤武。