成したいことがあるとしよう。
その時、はったりを入り口に実現させてしまえばいい。
誤解を恐れず言えば、学ぶこととはそもそも、はったりから始まるのだから。
現実解。
はったりを起点に、結果として「わからないことがわかる」から成長するのであれば、それは最も有意義な教育である。
「はったりでナンボだよ」と直接語って自分に教えてくれたのは、100億円単位でのバイアウトを成した起業家だった。
ゼロから始めてトップレベルの大学入試に合格するとしたら、それは堂々とはったりを許容し、基礎に忠実に動いたことにある。
学びと成長の全ては、自分や他人にとって全く未知の物事に関し、ありのまま誤解や不出来を許容することから始まる。
誤解や不出来を許容するということは、堂々とデタラメっぷりを認めればいい。
そのためには、たっぷりの愛情と、ほんの少しの勇気が必要だ。
もちろん、対象はビジネスに限らず、受験勉強でも資格試験でも、語学でも、研究でもいい。
真面目な人ほど「はったりなど何事か!」と声を荒らげる。
この気持ちは、自分も以前はついついそう言い出す側だったからこそ、痛いほどわかる。
何も「まるっきり大嘘をついて詐称しろ」となど言うつもりなど毛頭ない。
そこには愛情も勇気もないし、ただの退屈な詐欺だ。
また、誰もが全てを最初から知り尽くして、上手く出来ているはずがない。
冷淡に指摘されるだけでは、上手くなりようがないただの辛い暴力だ。
いずれの状態で、ことを始めても、どう贔屓目に見ようと楽しいとは思えない。
その逆を捉えてみよう。
愛情と勇気という「気持ち」から動き、その上で仕組みを創ることを、はったりと呼ばずしてなんと呼べばよいだろう。
外国語でやりとりする能力でもいいし、数学やプログラミングを使いこなす能力でもいい。
幼少期には想像もつかなかったスキルが今あるとしたら、それは実に小さな小さな願望が集合して愛情を創り、今は実現していない目標のためにリスクを取る勇気が出て来て、知らず知らずに現実化しただけである。
「こうありたい!」を大事にするのなら、まずは自分や他人の出来ていない事実を許容し、それを「得意な土俵」に変換する流れを創ろう。
「これでは先に進めずダメだな」と感じるとしたら、愛情が出るように物事をしつらえ、勇気を出し切って「ダメだな」という場面とサヨナラすればいい。
care giverとは文字通りこのことだが、一見損するほうが、実は最後に得を取れるのである。
不出来を目一杯に許容してもらうことでのみ、成長を心底楽しむことが出来る。
愛情とは、そのような依怙贔屓のことだ。
boxcox.net、遠藤武。