「〜しなければならない」は、
実は真っ先に、自分の味方をしてくれる。
背中を蹴飛ばして、自分の次のToDoに飛び込ませるから。
現実解。
人間は自由な意思で動いて知恵をつけ、
物事を選び抜くべきだと、
私は原理原則として信じている。
その反面、何も下地がない状態で、
「あなたは自由だから、好きにやりなさい」
というのは、無責任であり無法地帯だとも、
非常に強く認識している。
例えば、荒れた公立中学校の最下層の生徒が、
非行に走ってチンピラ化するのは、
単に頭の使い方の下地がなってないだけであり、
頭を悪いまま放置していることにある。
このとき彼ら彼女らが、
真っ先に「しなければならない」ことは、
勇気を持って最下層から抜け出すために、
堂々と学ぶ行動に出ることだ。
背中を蹴飛ばされて痛いを思いを買ってでも、
最下層から抜け出さなければ、
ずっとチンピラのままなのである。
「自由にやりなさい」と言い出すことが、
無法地帯の広がりを助長するのであれば、
全てが裏目に出てしまう。
実はこれは公立中学校の下層の話に限らず、
大人の社会の中に明確にある、
立ち居振る舞いや序列や実績にも当てはまる。
例えば、ビジネスをやっていて、
うだつが上がらないのであれば、
「しなければならない」が複数見つかる。
関わる人の数と組み合わせと質を変えるとか、
別な分野や地域に移って有利な土俵を作るとか、
既存顧客とのつながりを強化するとか、
その延長線上で見込み客に無理なく認知させていくとか、
やるべきこと・出来ることは、たくさんある。
当然の話だが「しなければならない」を放置していたら、
結果として、そのビジネスは衰退して死んでしまう。
チンピラのままでいるどころか、
チンピラとしてすら生きられなくなるという、
厳然たる事実は認めなければならない。
この厳然たる事実こそが、
実は厳しい顔をした、優しい味方なんだよね。
痛いところを思いっきりグサリとついて、
背中を蹴飛ばしてでも先に進む必要があるからこそ、
物凄く厳しい事実ということだ。
いかに厳しかろうとも、
事実を事実として受け入れさえすれば、
実は「なんだ、こんなにシンプルだったのか…!」と、
ハッとするのも、事実の優しい特徴だ。
厳しいは、実は優しい。
これだけわかっておけば、
シンプルに次のToDoを進められるんだよね。
boxcox.net、遠藤武。