戦略も戦術も、生々しい本音の目標の賜物である。
戦略とは、目標を達成するリソースの使い方でしかない。
戦術とは、使い方の筋書きや具体的な道具でしかない。
現実解。
多くの人が、「戦略」や「戦術」という言葉を使っているが、戦略はヒト・モノ・お金・情報といったリソースの使い方であり、戦術は具体的にどう使っていくかということだ。
この戦略と戦術の大前提に、生々しい本音の目標が必須である。
本音の目標とは、いくら稼ぎたいとか、志望校に合格したいとかではない。
「もっと寝たい」とか「もっと楽しく過ごしたい」とか「もっとモテたい」といった、ひたすら本音丸出しの妄想である。
生々しい本音の目標なしに、「戦」という字の入った言葉を使ってまで、エネルギーをつかって進んでいく気になれるだろうか。
「戦略」が「戦術」とごっちゃにされるのは、リソースの使い方もさることながら、血の通った生々しい本音がないためである。
本音の目標から見れば、戦略も戦術も、ただの台本や道具に過ぎない。
同じ舞台に乗せれば、台本も道具も、一揃いの手段に過ぎない。
目標に本音が吹き込まれずあやふやだと、一揃いのリソースや使い方について「どっちがどうなの?」と悶々としてしまう。
使い方という手段で悶々とするということは、本音を無視して手段に逃げているのだ。
本音を浮き彫りにして訴えたいメッセージがなければ、小説でも音楽でも映画でも、退屈な作品である。
夢中で全体像を追いかけ、ついつい我を忘れて必死で戦う姿こそ、本音のメッセージだ。
生々しい本音があるからこそ、戦略と戦術に血が通う。
まず生々しい本音を満たしてこそ、満足した過去を捨て、更に成長できるのである。
「退屈だなあ…」と感じるなら、まず生々しい本音の目標を立ててみよう。
自分の事実を認めた上で、成長の入り口に立てる。
何も、我欲だらけの煩悩まみれになれと言うつもりはない。
我欲と煩悩を認め、そして満足し、コンプレックスをサラリとポイ捨てした先にこそ、心の成長がある。
もし生々しい本音の目標を出して戦えるとした、その人は強い。
世間などものともせず、自分の本音を隠さずに動けるからだ。
もし生々しい本音の目標なしに戦えるとしたら、その人は強い。
世間で隠した本音を、不器用に出す機会に恵まれているからだ。
「私は自分の本音を隠している…不器用だ」
とシュンとし人は、成長の機会があるのだから、堂々と喜んでいい。
最初から本音丸出しであるより、後から本音を出したほうが、スカッとする。
個人的には、そのような不器用な人は、応援したくなるくらい好きだ。
血が通えば、リソース不足を補って戦略を立てることができるし、個別の戦術も大前提が変わる。
不器用だけど本音を本気で出すからこそ、スカッとすることができるのは、不器用な人の特権だ。
生々しい本音で、現状のカラを破ろうとする人は、必ず人の心を打つんだよね。
boxcox.net、遠藤武。