時間の掛けすぎ対策。

daily6 人と技術と成長。

うまく行かない場合とは、

往々にして時間の掛けすぎである場合が多い。

思い切って「これ本当にいるの?」と問うて行動してみよう。

 

現実解。

時間を掛けて長考したアウトプットは、

粗製乱造を100回こなしたアウトプットより、

学ぶ回数が少ない。

100回失敗して、

100回学んだほうが、

長考するよりも実践的ということだ。

100回恥ずかしい思いをして、

100回一次情報を貯めてしまえば、

それだけ行動が大胆になる。

もちろん行動だけでは足りないから、

大量の読書で答え合わせをしつつ、

本に書いていない言葉を推定して、

「ならでは」を炙り出すのである。

統計的に導き出すことと全く同じだ。

「あのすごい人ならどう言うだろう?」

と推定することも、このうちに含まれる。

100回行動した結果、

101回目が今までの行動から離れ、

それまでの自分とは異なる次元から知見を出すのだ。

これは、単に長考することに比べ、

処理能力で桁違いの知見を出せる上に、

推定することで処理能力を飛び越えることも、

並行して狙える。

人間の知恵とは、

単に長考することではなく、

さっさと動いて限界を突破することで、

まず拓けるのだ。

長考は、さっさと動いて限界を突破しても、

それでもまだピンと来そうにない、

思いっきり主観的なことにのみ使うといい。

仕事の問題や、勉強の問題は、

どこかで他の誰かが解決済みである。

となれば、仕事の問題も、勉強の問題も、

さっさと動いて解決してしまい、

本当に考えるべき主観的な人生の問題だけを長考したほうが、

清々しいと思わないだろうか。

時間を掛けすぎないようにして、

さっさと動いて駆け抜けてしまうというのは、

主観的に納得できる人生を送るための方法である。

客観的に真似できるような成長や成功の要素について、

さっさとクリアしてしまえば、

残るは主観的な、あるいは哲学的な問題だけだ。

これは一生かけても長考すべきことだし、

そんな問題があるほうが豊かである。

長考は人間の特権であり、贅沢である。

だからこそ長考を完全排除するのは、

人間をやめることになりかねないから、

長考は答えのない分野にだけ使おう、という話だ。

デイリーレポートを書くにしても、

答えのない物事を扱うからこそ、

答えを出しやすい物事は、

あっさりと書ききってしまうようにしている。

この記事も15分程度で書いている。

 

時間を掛けすぎずに、

さっさと動いてしまえるところから動くのは、

更に高次の視点に自分を持ち込むためにも、

必須の行動なんだよね。

boxcox.net、遠藤武。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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