うまく行かない場合とは、
往々にして時間の掛けすぎである場合が多い。
思い切って「これ本当にいるの?」と問うて行動してみよう。
現実解。
時間を掛けて長考したアウトプットは、
粗製乱造を100回こなしたアウトプットより、
学ぶ回数が少ない。
100回失敗して、
100回学んだほうが、
長考するよりも実践的ということだ。
100回恥ずかしい思いをして、
100回一次情報を貯めてしまえば、
それだけ行動が大胆になる。
もちろん行動だけでは足りないから、
大量の読書で答え合わせをしつつ、
本に書いていない言葉を推定して、
「ならでは」を炙り出すのである。
統計的に導き出すことと全く同じだ。
「あのすごい人ならどう言うだろう?」
と推定することも、このうちに含まれる。
100回行動した結果、
101回目が今までの行動から離れ、
それまでの自分とは異なる次元から知見を出すのだ。
これは、単に長考することに比べ、
処理能力で桁違いの知見を出せる上に、
推定することで処理能力を飛び越えることも、
並行して狙える。
人間の知恵とは、
単に長考することではなく、
さっさと動いて限界を突破することで、
まず拓けるのだ。
長考は、さっさと動いて限界を突破しても、
それでもまだピンと来そうにない、
思いっきり主観的なことにのみ使うといい。
仕事の問題や、勉強の問題は、
どこかで他の誰かが解決済みである。
となれば、仕事の問題も、勉強の問題も、
さっさと動いて解決してしまい、
本当に考えるべき主観的な人生の問題だけを長考したほうが、
清々しいと思わないだろうか。
時間を掛けすぎないようにして、
さっさと動いて駆け抜けてしまうというのは、
主観的に納得できる人生を送るための方法である。
客観的に真似できるような成長や成功の要素について、
さっさとクリアしてしまえば、
残るは主観的な、あるいは哲学的な問題だけだ。
これは一生かけても長考すべきことだし、
そんな問題があるほうが豊かである。
長考は人間の特権であり、贅沢である。
だからこそ長考を完全排除するのは、
人間をやめることになりかねないから、
長考は答えのない分野にだけ使おう、という話だ。
デイリーレポートを書くにしても、
答えのない物事を扱うからこそ、
答えを出しやすい物事は、
あっさりと書ききってしまうようにしている。
この記事も15分程度で書いている。
時間を掛けすぎずに、
さっさと動いてしまえるところから動くのは、
更に高次の視点に自分を持ち込むためにも、
必須の行動なんだよね。
boxcox.net、遠藤武。