決めきれない理由は、ただ弱者だからだ。
言い訳や無気力から脱したければ、
真っ先にこの事実を認めるしかない。
現実解。
人は社会的な動物であるゆえに、
放っておくと群れてしまう。
これは小魚が群れを作るのと同じだ。
小魚が群れる理由は、
水の抵抗を減らすことと、
大きな魚の餌食にならないためだ。
要は、弱者だとわかっているから、
周りからの抵抗を下げて動きやすくし、
かつ強者に食われないように対応するのである。
この構造、どこかで見たことがないだろうか。
群れの中でその他大勢として生きるだけで、
自分では何も決めきれない人と、
全く同じなのである。
自分のチカラのなさを、
群れることで薄めて、
同調圧力で強く見せるのだ。
だからこそ、自分で何かを決めきる必要はゼロである。
我々は、小魚の群れを他人事として、
笑い飛ばせるだろうか。
圧倒的大多数の人は、
群れる経験をゼロにすることは出来ない。
親から生まれて育てられる以上、
必ず群れを経験する。
親の庇護のもとでは、
自分で物事を決めきる必要はない。
そうしなければ幼子は死んでしまうからだ。
成長に応じ、段々と、
自分で物事を決めればいいのである。
ただし、大人になっても、
全く決め切れていない状態という人は、
決して少なくない。
それこそ、幼子と同じで、
死んでしまいかねないためだ。
大人の場合、社会的あるいは経済的に、
死んでしまうという点がある。
自己決定する自由があるというのは、
ただ強者だからという意味でしかない。
もちろん基本的人権が保障されているが、
それは最低限度の物事であって、
資本主義においての強者であることとは別軸である。
本当に自由が欲しいのなら、
ついうっかり別な選択肢を取って、
決めきる必要があるんだよね。
魚であるなら、群れから飛び出したり、
そもそも海中から飛び出すことにある。
海水の海から飛び出して、
淡水の川についうっかり逃げ、
更に生き残った魚が淡水魚になった。
淡水魚でもついつい浅瀬に棲むようになった種は、
ヒレが手足に変わっていき、
更に生き残った魚がサンショウウオになった。
浅瀬からはみ出し、
重力を克服して肋骨を持ち、
陸地に登っていく選択肢を取って、
更に生き残った者が我々人類に連なっている。
数千万年を要する進化の過程は、
いまの人類からすれば、
やたらと古臭い常識かもしれない。
過去の選択肢はあくまで過去の選択肢だ。
いっぽう、そのような苦しい思いを経て、
変化に適応して進化していった者が、
今もなおしぶとく生き残っており、
それが我々だと受け止めれば、
我々には祖先のそのまた祖先からずっとと、
「しぶとさ」が受け継がれていることにならないだろうか。
シンプルに捉え直せば、
「祖先に習って、しぶとくやってみよう」
「祖先に習って、ついうっかりやってみよう」
とカジュアルに思い込んでいいのである。
ついうっかり、目の前に広がった、
非常識で魅力的な世界に、
足を踏み入れていいのである。
「決めきれない」と思うなら、
・何が好きで何が嫌いか
・何を直感的にやってみたいか
・どんな非常識から爽快感を得るか
を、まず重視するほうが心底楽しい。
常識ばかりに気を取られていたのなら、
「非常識な行動を取って次に進みなさいね」
と、神様のような存在が語りかけていると、
思い込んでおくくらいでちょうどいい。
人を傷つける非常識はダメだが、
その他大勢にならないための非常識は、
孤独を楽しむことができるし、
そこから強烈なつながりが生まれる。
進化の過程を想像して、
うっかり多数派と違う方向に針路を取るほうが、
頭も行動も桁違いに求められるから、
結果的に決めきることになるんだよね。
(追記)
決めきることを目的にするのではなく、
決めきることは、強くなるための手段だと認めると、
根本から面白くなる。
boxcox.net、遠藤武。