決めきれない。

daily6 人と技術と成長。

決めきれない理由は、ただ弱者だからだ。

言い訳や無気力から脱したければ、

真っ先にこの事実を認めるしかない。

 

現実解。

人は社会的な動物であるゆえに、

放っておくと群れてしまう。

これは小魚が群れを作るのと同じだ。

小魚が群れる理由は、

水の抵抗を減らすことと、

大きな魚の餌食にならないためだ。

要は、弱者だとわかっているから、

周りからの抵抗を下げて動きやすくし、

かつ強者に食われないように対応するのである。

この構造、どこかで見たことがないだろうか。

群れの中でその他大勢として生きるだけで、

自分では何も決めきれない人と、

全く同じなのである。

自分のチカラのなさを、

群れることで薄めて、

同調圧力で強く見せるのだ。

だからこそ、自分で何かを決めきる必要はゼロである。

我々は、小魚の群れを他人事として、

笑い飛ばせるだろうか。

圧倒的大多数の人は、

群れる経験をゼロにすることは出来ない。

親から生まれて育てられる以上、

必ず群れを経験する。

親の庇護のもとでは、

自分で物事を決めきる必要はない。

そうしなければ幼子は死んでしまうからだ。

成長に応じ、段々と、

自分で物事を決めればいいのである。

ただし、大人になっても、

全く決め切れていない状態という人は、

決して少なくない。

それこそ、幼子と同じで、

死んでしまいかねないためだ。

大人の場合、社会的あるいは経済的に、

死んでしまうという点がある。

自己決定する自由があるというのは、

ただ強者だからという意味でしかない。

もちろん基本的人権が保障されているが、

それは最低限度の物事であって、

資本主義においての強者であることとは別軸である。

本当に自由が欲しいのなら、

ついうっかり別な選択肢を取って、

決めきる必要があるんだよね。

魚であるなら、群れから飛び出したり、

そもそも海中から飛び出すことにある。

海水の海から飛び出して、

淡水の川についうっかり逃げ、

更に生き残った魚が淡水魚になった。

淡水魚でもついつい浅瀬に棲むようになった種は、

ヒレが手足に変わっていき、

更に生き残った魚がサンショウウオになった。

浅瀬からはみ出し、

重力を克服して肋骨を持ち、

陸地に登っていく選択肢を取って、

更に生き残った者が我々人類に連なっている。

数千万年を要する進化の過程は、

いまの人類からすれば、

やたらと古臭い常識かもしれない。

過去の選択肢はあくまで過去の選択肢だ。

いっぽう、そのような苦しい思いを経て、

変化に適応して進化していった者が、

今もなおしぶとく生き残っており、

それが我々だと受け止めれば、

我々には祖先のそのまた祖先からずっとと、

「しぶとさ」が受け継がれていることにならないだろうか。

シンプルに捉え直せば、

「祖先に習って、しぶとくやってみよう」

「祖先に習って、ついうっかりやってみよう」

とカジュアルに思い込んでいいのである。

ついうっかり、目の前に広がった、

非常識で魅力的な世界に、

足を踏み入れていいのである。

 

「決めきれない」と思うなら、

・何が好きで何が嫌いか

・何を直感的にやってみたいか

・どんな非常識から爽快感を得るか

を、まず重視するほうが心底楽しい。

常識ばかりに気を取られていたのなら、

「非常識な行動を取って次に進みなさいね」

と、神様のような存在が語りかけていると、

思い込んでおくくらいでちょうどいい。

人を傷つける非常識はダメだが、

その他大勢にならないための非常識は、

孤独を楽しむことができるし、

そこから強烈なつながりが生まれる。

進化の過程を想像して、

うっかり多数派と違う方向に針路を取るほうが、

頭も行動も桁違いに求められるから、

結果的に決めきることになるんだよね。

 

(追記)

決めきることを目的にするのではなく、

決めきることは、強くなるための手段だと認めると、

根本から面白くなる。

 

boxcox.net、遠藤武。

遠藤武(えんどう・たける)
グロースハッカー。

↑詳しい自己紹介は上記リンクを参照。

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