誰かと喧嘩する時点で、
喧嘩相手と同レベルに落ちていく。
SNSの炎上も、親との喧嘩も、
はっきり言って気にすることすら無意味だ。
自分の側が、
立ち居振る舞いを良くし、
筋を通しておけばいい。
それ以上騒ぎ立てる人は、
そもそも立ち居振る舞いが悪くなる。
相手にする必要すらないその他大勢だ。
小学校低学年を過ぎた年齢であれば、
喧嘩をし出すのははっきり言って、
「自分には実力がないしコンプレックスだらけだけど、
その事実とは向き合う勇気がないので許してね」
という無言のメッセージだ。
事実をありのまま言うと、
いちいち他人に悪態づいたり、
子供を持つ年齢の場合、
いちいち自分の子を縛りつけるのは、
負けが込んでこれ以上成長しないことの証である。
特に40代を境に、大人として社会的な格差が明確になる。
このとき「どうせ自分なんか」と腐り果ててしまうと、
そのまま底辺コースまっしぐらだ。
自分の歩むコースは常に自分で選べばよく、
特に15歳を過ぎて義務教育を終えるとき、
自分の選択肢に自分で責任を持つのである。
不勉強に逃げずこの事実に気づけた人から、突破口が開ける。
畢竟、人生とは、
創意工夫でどうとでもできる、
常に気付いて突破口を開くゲームだ。
突破口探しが創意工夫よりも環境に左右されるのは、
模範解答回収ゲームである試験対策くらいだ。
例えば大学受験はシンプルな仕組みではあるが、
時間の制約や、頭の使い方の基礎力といった制約があり、
家庭環境が悪いと、18歳時点ではどうしようもない要素がある。
模範解答回収ゲームはさておき、
それ以外の問題の解決は、
人の本音に寄り添うことと、
読書量に比例する。
要は解答の前提を自分から問い、
独自の仕組みを用意するためだ。
目の前の他人と喧嘩しているうちは、
独自性など得られない。
何にでもいちいち喧嘩をふっかける人は、
まともにコミュニケーションが成り立たない。
人の本音に寄り添うどころか、
自分の本音すら無視しているのだから。
boxcox.net、遠藤武。