戦後の日本人は、ものすごくイノベーション慣れしている。
高度経済成長期とは、戦後の焼け野原から復興すべく、常にイノベーションの洪水だった。
1990年以降は、停滞ではなく、積み重なったイノベーションで感覚がマヒしているだけ。
現実解。
災害のような局所的な状況を除けば、焼け野原は日本のどこにもない。
地域格差はさておき、世界的に見れば、人もモノもお金も日本には溢れている。
よって現在では、創意工夫と淘汰を伴う本来のイノベーションのあり方に戻っただけと言える。
新しいことや創意工夫のない状態で、
「日本は停滞している…」と、つい言ってしまう場合、
それは淘汰される側のはじまりだと言っていい。
停滞を誰かのせいにしたところで、
何もしない個人は緩やかに先細っていくだけで、
そもそも何も始まらない。
これが戦国時代であれば、あっさり切り捨てられて死んでいたかもしれないし、
近代医療や農業や社会保険のない時代は、栄養失調や風邪で死んでいたかもしれない。
そう捉え直すと、現代のさまざまなインフラのおかげで、
「何もしなくとも、緩やかな先細りだけで、生きていける」
と言い換えできる。
「日本は停滞している…」という言葉について、
100%真っ赤な嘘だと言う気は毛頭ない。
停滞感の本質は、各種の利権が解体されて競争が生じる一方、
その中でぼんやりしてもそれなりに生きられるという豊かさがある。
要は、そこに成長意欲が出るからこそ疑問が湧き、イノベーションと淘汰に明暗が分かれるのである。
この時必要なのは、枯れた技術の水平思考や先行研究であって、やたらと「イノベーション」を連呼する威嚇に従順になることではない。
先細りから逆算すれば、少なくとも「何が求められているか」を読み取ることができる。
追記。
イノベーションは、逆算して扱いやすいように扱うほうが、実現のための行動も思考もハードルが下がるんだよね。
boxcox.net、遠藤武。