吹奏楽に詳しい人なら知っている、
丸谷明夫先生が亡くなられた。
ふだん吹奏楽について主体的に書くことは一切ない。
しかし、
『「記録されないものは記憶されない」
私たちはせっせと、
とふとメールで鼓舞してくれたのは、僕が幼少期を過ごした谷根千で、
とてもお世話になった、作家の森まゆみさんだ。
それゆえに、記憶されるべきものを記録するためにだけ、丸谷先生のことを書き伝えよう。
僕は通っていた高校で吹奏楽部に入り、
吹奏楽コンクールの全国大会で演奏した。
全国大会の演奏は、
丸谷明夫先生が率いた大阪府立淀川工科高校と、
同じCDに収録された。
話を、自分が吹奏楽で全国大会に出た1年前に遡ろう。
その時にすでに、丸谷明夫先生とは関わっていたのだ。
僕が全国大会に出る前年、
先輩たちは惜しくも全国大会を逃したのだが、
直後で全国大会の入場チケットが当たったとのことで、
部員全員で全国大会を普門館に聴きにいった。
(なので、僕は「聞き専」含めて2年連続で普門館に通ったことになる。)
淀工の強烈なサウンドに圧倒された記憶は、
地下で食べたカレーライスの味と共に、
今も鮮明に残っている。
自由曲の『ダフニスとクロエ 第2組曲』の完成度を上げる様子を追いかけていた。
自分の通っていた高校は、自主自立を重んじていたのと、
創部OBがとあるプロ楽団に属しており、
トレーナーとして趣味と実益をかねながら毎日のように淡々と指導しに来て、
おそらく高校生らしからぬスタイルで練習していた。
なので、丸谷先生が淀工の部員ひとりひとりと日誌を交換するという運営スタイルは、
とても興味深かった(そのようなケースのほうが多いと後で知るのだが)。
そんな経験のあと、
ふらりと先輩に連れられて参加した合同コンサートで、
丸谷明夫先生の指揮で演奏するとは思ってもいなかった。
たしか八王子の少し手前にあるパルテノン多摩だったはずだ。
番組で観た限り、厳しい指導もするのだが、
合同コンサートの指導スタイルは底抜けにエネルギッシュで明るかった。
淀工が全国大会で演奏した課題曲を、
丸谷先生の指揮で吹いたのだが、
トランペットの目立つ部分を、
「競馬のファンファーレのように!」
と、一発でわかる言い方をしていたかな。
演奏会が終演したあと、
先輩に連れられて挨拶がてらサインをねだりに行った。
「うちにも遠藤ってのおるよ!」
と気さくに話してくれた。
(手元にあるCDを確認したら、なるほど確かにいた。)
そんな関わりがあった、
まさかその次の年に、
全国大会の同じ舞台に立って、
同じCDに収録されるなんてね。
想像したくてもなかなか出来ないよね。
自分のいた高校は全国大会を目指していたけれど、
ギリギリで負けることばっかりだったと、
上の学年の人が口々に言っていたと記憶している。
自分がいたその年にギリギリで勝ち抜けて初出場して、
自分の団体の全国大会の曲目が今でも語り草にされて、
しかも丸谷先生と再会するとはね。
僕はそのあと楽器も音楽も完全にやめたから、
「あのときの遠藤って、キミ同じ普門館におったんか!しかも同じCD!」
というツッコミのセリフを丸谷先生に言わせることもなかったけれど、
天高くからそう言ってくれそうだなという妄想が、
軽やかなボケのごとく走り抜けた。
「一緒にええ音作ろ」という発想で、
故人を偲ぶことが出来ると信じる。
丸谷先生、ありがとうございました。
boxcox.net、遠藤武。