月別アーカイブ: 2019年5月

「つまらない」「くだらない」を面白くするにはどうしればいいか。

つまらない、くだらないと感じる物事があるなら、
・何を加えたら面白くなるか
・何を差し引いたら面白くなるか
・何を変更したら面白くなるか
という視点に着目するといい。

これはクイズ問題をつくって答えるようなもので、
それが意外な正解であっても、ボケた誤答であっても、
どちらだって構わない。

目の前の必要な物事や、日常的な物事を、
「押し付けられたありきたりな物事」
と思い込まされてしまうのは、もったいない。

自分で再解釈して、付加価値を作ってしまえばいい。
そのような自由を、知性と行動でもっと行使していいんだよね。

..遠藤武

人はなぜ誤解されるのか。

目の前に見えるあなたや、その周辺の物事を、
他人は他人なりの言葉や知識や感情で解釈するからだ。

誰かが誰かを理解するとっかかりとして、
知識やロジックを重視していても、
それらはあくまで材料に過ぎない。

それ故に、何をどう頑張っても、誤解されることが、
どうしても避けられない場面が生じうる。

現実解。
そもそも、理解の不足を、
「信用不足」だと捉え直してみよう。

究極的に言えば、心底の理解者であることは、
「この人を信用してみよう」という好奇心の適用と継続だ。

その実は、理屈一辺倒ではなく、
得てしてイメージで進み、極めて情緒的だと言える。

同じ知識やロジックを持っていても、
言葉遣いや外見や、性格といった、
感性が優先される要素に「?」が出てしまえば、
理解を得ることが難しい。

文化が違ったり、知的背景に格差があったり、
嗜好に不一致があると、理解は遠のいてしまうのである。

自分と他者の置かれた文脈について、
ロジックでも感性でも、共通点の発見が出来ればこそ、
理解が可能になるんだよね。

..遠藤武

陰口が良くないとされるのはなぜか。

陰口とは、要は「わざわざ嫌いな対象と後ろ向きに群れること」だから。
嫌いな対象と関わり、かつ群れているのでは、
二重の意味で時間の無駄である。

また、SNSで誰かが拡散した、
ネガティブだったり根本的に誤っている情報に、
いちユーザーとしてご丁寧に反応するのも、
実は陰口の一種である。

誰かが広告費やマーケティング費を乗せた「嫌いな情報」に、
いちいち可処分時間を消費させられてしまうというのは、
人に乗せられて時間を無駄にしていることにほかならなく、
この構造は陰口と何ら変わりがない。

現実解。
陰口に逃げず、まっとうな言論を持つのであれば、
知識と知識を掛け合わせて、後ろ向きにならず対処すればいい。

「おかしい」と思ったことについて、
誰も言語化していないことを前向きに言語化することは、
知識を掛け合わせた先にある知恵のなせる技なんだよね。

..遠藤武

プログラミングはどう役立つのか。限界があるとしたら何か。

プログラミングが役立つのは、
機械やコンピュータを動かす指示書を司れるから。
かつ、このスキル自体が仕事として換価しやすい点も挙げられる。

この限界については、
「技術の切り売りや代行にとどまってしまう」
というリスクに留意してみよう。

いかに技術で突出しても、
事業や研究開発を企画できなければ、
いずれ壁にぶち当たる。

技術を、事業や研究開発に持ち込んで、
投資や新規開拓の可能性を具体的に模索することが、
この壁を越えるためのヒントなんだよね。

..遠藤武

自立心が重要なのはなぜか。

自分から行動したり、行動そのもののあり方を根本から変えることは、
自発的に考えて試してみることでしか、達成しえないから。

仮に信頼できるプロに尋ねるにしても、
言っていたことを一字一句徹底的に吸収して、
その上で質問を重ねがけすることが大前提だ。

質問だけではどうにもならない物事については、
自分でも徹底的に知識を集めて行動し、
思考と試行を繰り返す必要がある。

自立して不安をなくすために、プロに対価を支払う。

対価を支払うからには、徹底的に質問攻めにして、
自分の足腰を根本から強くするだけだ。

..遠藤武

そもそも何で古典が読みつがれるのか。

それらが、科学や法律や哲学の起点になっているから。

ギリシア古典を現代の目線で読むと、
文字通り死文化した内容でしかない要素が多いけれど、
それらは「新たな発見や、失敗の履歴」ということだ。

何でも合理化させる現代でさえ、これらが読みつがれるのは、
失敗も成功も、今も変わらない価値観も、一気に触れられる点にある。

現代目線の試験対策の経験ばかり優先させたり、
そもそもの知識不足で不用意に誤読したりするのは、
文字通り、学問の自由や基礎を得ていない状況だと気づこう。

..遠藤武

目標を設定しても、なぜブレてしまうのか。目標設定は本当に必要なことなのか。

自分の成長や、大小の失敗からの学習を通じて、
目標を後からアップデートしたり、
目標設定そのものを根本から取り替える必要が出てくる。

これは、成長や嗜好の変化に応じて、子供服を卒業したり、
色気を出して大人っぽい髪型を好むようになることと同じだ。

目標設定のために空想してもいいし、ブレていいし、
その根拠は前向きであってもいいし、後ろ向きであってもいい。

「どうせ無理だ」という言葉を正直に信じるのではなく、
生々しい欲求を目標に落とし込むことが重要なのであって、
「でも、もしかしたら可能かもしれない」という期待感を、
100回でも1000回でも1万回でも懲りずに繰り返すことにある。

「目標設定が必要ない」という人で、成長を続けている人は、
実際には目標を明文化していないだけで、
「もっと面白く、何らかの幸福を感じることをする」
ことを頭の片隅では心がけているに過ぎない。

場合によっては、目標が他人に強引ぶりを押し付けてしまうこともある。

仮にそのような歪みに直面してダメージを受けたなら、
その歪みは、その人にとっての成長の材料だとだけ受け取って、
それ以上考えずにさっさと離れるだけでいい。

また、何らかの理由で、面白さや多幸感がノックアウトさせられ、
悲観的な視点から離れられず、目標設定とそのアップデートがないがしろになったら、
そのような悲観を繰り返す自分をまず認めてやろう。

その半歩先で、悲観や妬み嫉みといった感覚がまだ繰り返されるのなら、
それは足りない知識の回収と、出来る範囲での行動が促されているのである。

目標設定などせず、敢えて刹那的な生き方に賭けることも、
また目標のアップデートやその先の成長も気にしないことも、
悲観的な視点を一生懸命に繰り返すことも、
究極的には自分の人生の選択肢の一つだ。

無理に前向きになろうとするだけでなく、
そのようにひたすら悲観を繰り返して飽きた先に、
突然新たな視点が出てくるかもしれない。

もっと言うと、極めて愚直に、
「今の自分に足りない視点や知識を、即時回収する」
ようにするだけで、次のヒントを得ることが出来る。

後ろ向きにブレたことから何かを気づくとき、
それは次へのヒントにたどり着いたことに他ならない。

自分のためだけに目標や問題を設定することとは、
自分に何が出来て何が出来ないか、
何をやりたくて何をやらないか、
といった要素を丁寧に明かしていくことだ。

それは過去に拘泥することでふと気づくことかもしれないし、
もしかしたら現在に対する悲観が背中を押してくれるかもないし、
将来に対する不安が、ふと行動を招くかもしれない。

どうせなら、死ぬ直前まで空想を繰り返して、
前向きだろうと後ろ向きだろうと、
面白く生き抜いたほうがお得というだけだ。

..遠藤武

独自性を出すにはどうすればいいか。

独自性を高めたいなら、独自性そのものに目をつけるよりも、
既知の物事を増やしていくほうが近道だ。

常に「なぜそうなるのか?」という素朴な疑問を入り口にして、
既知の物事を増やし続けるだけで、未知の物事が尽きない。

一定の系統性がある知識を蓄えて扱うことと同時並行で、
現状までで扱われて来なかった論点を素朴な疑問として抽出できれば、
それが独自性のタネである。

一点注意しておくと、独自性に見せかけた知識不足は、
議論に値しない勉強不足のヘナチョコだ。

例えば、基本的人権のなかった時代を肯定して、
「人は昔の制度を通じて支配されたほうが、ある意味で自由である」
という論点を提起するとき、ディストピアという単語の知識が足りていない。

これは独自性を出す前に、義務教育の知識の学び直しが必要なケースということ。

..遠藤武

答えがないところに答えを作るには、どうすればいいか。

明確な答えがない物事について、何らかの答えを見出したい。
そのためには、前例を知りつつも、いっさいの疑いを許さない前例主義には陥らない。
また理論上も実験上も合理性があり、可逆的(=戻ってこられる)なら、その方法を試す。
そうやって、答えを近似していくしかない。

「それは間違っている」と頭ごなしに言われてしまうような物事は、
往々にして、前例を調べ尽くされることなど全然ないし、
理論上も実験上も合理性があるか否かを問い尽くされることもない。

これはどういうことかというと、「疑い不足」だ。

猛烈な批判を食らう物事が、単なる前例の踏襲による否定なのか、
メカニズムや事例まで出し尽くした上でのまっとうな批判なのかは、
実のところ、あまり問われることがないのである。

そもそも、答えが存在しないのだから、
疑いながらも肯定していくしかない。

間違いから学ぶことが一番求められる、
そんな離れ業なんだよね。

..遠藤武

堂々巡りが起こるのはなぜか。

いつもの状況に、根本的な疑いも持たず、
なんとなく慣れてしまっているから。

堂々巡りとは、辛くてしんどい状況にも関わらず、
けだるい空気を選んで群がっているということ。

選ぶ理由が仮に消極的なものだとしても、
現に決めているのは自分自身だ。

どんなボキャブラリーを使っているか、
どんな物事にどう反応しているか、
一つ一つ丁寧に回顧して、
今までと別な選択肢を選んでいけば、
堂々巡りを少しずつなくせる。

せっかくなら、「こうありたい」と思う自分を狙って、
ふさわしい言葉や知識や立ち居振る舞いで満たされたいよね。

..遠藤武