書こうと思って書けなかったことがある。
言おうと思って言えなかったことがある。
動こうと思って動けなかったことがある。
これを全て実行に移すための基礎づくりが「学ぶ理由」だ。
もっと直接的に「自分が自分を肯定できる、そんな世界を作るために学ぶ」と言ってもいい。
多くの人が考えるであろう、単に「誰かが正答を定めた問いに答える」ための学びは、試験対策に過ぎない。
わざと話題をそらして、試験対策の話もしておこう。
試験対策を否定するつもりは全くない。
こと日本において、試験対策で生じるヒエラルキーを否定して逃げてしまうとどうなるか。
うらみつらみのような、陰鬱なコンプレックスを一生に渡って抱えかねない。これだけは何が何でも回避しておきたい。
具体的には、コンサルティング業界かもしれないし、プログラミングかもしれない。あるいはRPG(ロールプレイングゲーム)の速解きかもしれないし、クイズゲームかもしれない。
解答が用意され、後天的に解くことができる商品は、試験対策のような道が自ずと生じるということだ。
この結果、何が起こるか。
「商品の速解きテンプレートやパターンを、無批判に信じ込んでしまい、それを頭の良さと勘違いする」のだ。
「独創性があるように見えて、実はテンプレート的」
「独創的な価値や問題を、自分から設定する機会がガクッと減る」
これは時代に応じて「地頭」などのように言い換えられる。
話をもとに戻そう。
「学ぶ理由」とは、単にヒエラルキーのパーツやプレイヤーになることではない。
「学ぶ理由」とは、単にヒエラルキーを単に否定することではない。
「学ぶ理由」とは、自分でヒエラルキーを組み立てられる(あっさり上書きできる)側に回ることだ。
「学ぶ理由」とは、自分がヒエラルキーの外に出てもいい自由を得ることだ。
常識に屈服せず、障壁にやられず、自分から世界を肯定的に作っていくことが全てだ。
肯定感を欠いた時、ほとんどの物事について「ヒエラルキーに従うカリキュラム消化のような、既存のコピペ知識の回収で、ただただつらいハードル」という感覚が始まってしまう。
現実解。
学ぶことについて疑問が生じたら「ヒエラルキーの外に出るためにも誰より何より知識を得る」と考えてしまおう。そうすれば、思いのほか遠くまで飛んでいくことが出来るんだよね。