「態度のデカさ」は、小心者であることや、知性的でないことと比例する。
自分の内面を誤魔化す、常套手段ということだ。
ある程度以上の品のよさを持つことが当然の環境で育ってきた人には「ああ、この人は誤魔化しているんだな」というのが手に取るようにわかってしまう。
残念な文脈での「態度のデカさ」とは、クチャラーだとか、言葉遣いだとか、本当にちょっとしたところに出てしまう。
恒常的に態度がデカい人と、瞬間風速で追い込まれた人の違いは、ゆったりくつろいでいるときの態度で瞬時に見分けがついてしまう。
新幹線のグリーン車で、態度をデカくしたり、周りを無視して不快な音を立てている人がいる。判断のしづらい「小心者かつ知性的でない、見分けづらい層」とは、この層だ。
基本的に、こういう層はまともに関わる意味はない。本質は、弱さと向き合わない、ただの嘘つきだからである。
向き合うべき物事と向き合わず、姑息な真似を繰り返していると、態度のデカさという大嘘で勝とうとする弱者になってしまう。
目の前にいる人の態度が気にかかったら、このような視点を持ってみると、こちらの取るべき危険回避策が見えてくる。
いっぽう「本当はいいところもあるんだけど…」があるとしよう。
その場合はどうするべきか。
どんな人でも、精神的に疲弊してにっちもさっちも行かないとき、ビヘイビアが必ず悪くなる。
まずはこの事実から入り込もう。
その上で分岐してみよう。
あなたがその人を絶対に許せない場合、たった一回で「残念な人」と決めつけて、関わることをやめてしまっていい。
あなたがその人を依怙贔屓したい場合、たった一回で「残念な人」と決めつけず、関わることをいったん続けていい。
一般的に言えば、社会的地位の低さや、自分の欲求を満たせない状況に追い込まれると、精神的な疲弊は避けられない。
疲弊は可能な限り回避すべきだが、たまたま嫌なことが重なって、瞬間風速にどうしようもないことはある。これは誰のせいでもない。
それを許せないから去るのか、それに寄り添って許すか、ちゃんと決断を下すのだ
好き嫌いで決めていいし、うじうじ迷っていいから、ちゃんと悩む。
誰とどう関わるかは、煮え切らなくとも決断しておくと、自分の生き方が豊かになるから。