昨日模写してみた絵の美術家さんは、オーブリー・ビアズリーの影響をいくらか受けている。
ビアズリーの絵と言えば、アリストパネスの『女の平和』とか、オスカー・ワイルド作品に代表される。
ビアズリーの絵と言えば、アリストパネスの『女の平和』とか、オスカー・ワイルド作品に代表される。
ということで、今回はオスカー・ワイルドの顔を描いた。
(ビアズリーの絵を模写するには、線の引き方からして筆づかいが甘すぎることが、
昨日の模写で実感できた。デッサンと物真似に、もっとチカラを入れてみようと思う。)
オスカー・ワイルドをどこから知ったのかと言えば、
高校生のときにハマったリヒャルト・シュトラウス作曲の楽劇『サロメ』だった。
(ほかにはラヴェル作曲のバレエ音楽『ダフニスとクロエ』だとかに
熱を上げていて、吹奏楽部にいた高校生にありがちなハマりようだった。
この経験がなければ、洋の東西を問わず、古典には一切ハマっていなかっただろう。)
よくよく考えると(考えなくとも)、
サロメがヨカナーンを好きすぎて、首を切らせちゃうようなどぎつい描写は、
教育現場でどう捉えられていたのだろう、という疑問が残る。
ライトノベルやら深夜アニメと比べれば、今更どうってことないのかもしれないけれど、
「清く正しく美しく!恋愛禁止!管理!管理!」という全体主義の、
ただストイックなだけで学校側の実績以外は何も残らないような類の、
管理のための管理を美徳とする部活で扱うような作品なのか?
そう考えると、当時も今も首をかしげる以外にない。
自分のいたところは、私服OK・髪染め放題だったので、
こういう「管理!管理!」という発想はどこにもなかった。
なので「管理!管理!」側で語ってくれる指導者の方がいたら、
実のところどう思っていたか話を聞いてみたい。
こういう「管理!管理!」という発想はどこにもなかった。
なので「管理!管理!」側で語ってくれる指導者の方がいたら、
実のところどう思っていたか話を聞いてみたい。
おそらく、学校側も指導する側も、運用上は何も考えておらず、
ただ単に技術的な効果の都合から、楽曲が消費されていただけに過ぎないだろうけれども。
こういう疑問を持つ自由なしには、表現者とは言えない。
ウェブ上でヘンテコな言論が跋扈してしまう今となっては、
新ためて「どぎつい描写」の論点を改めて問うてみることが大事なんだよね。