自分の現状が中途半端に知っている程度だと自認できず、
不意に上位互換にぶちあたって鼻っ柱がへし折られると、
したくもない競争に駆り立てられてしまう。
このとき、人はコンプレックスに悩まされることになる。
外的な要因が覆い被さり、自分を他者とをただただ狭い世界の中で比較させられることに苛まれる。
情と常識が優先してしまい、自由かつ寛容であるための知識を揃える準備すらできず、ループに苦しめられるしかない。
かくいう自分はというと、年齢が1桁のときから大学生くらいまでで、
半径2親等か2メートル以内で接してくれた大人たちが、
先んじて世界の広さを思い知らせてくれていた。
文芸、美術、社会運動、プログラミング、クラシック音楽、外交、政治・行政…と、
それぞれバラバラで、ひとまとめにするにはもはや大衆的とは言い難い、
果てしなく自由なものばかりとしか描写しようがなかった。
それらに関わっていた当事者の大人らが、何を求め、
何に喜び、何に苦しんでいたかを見通して予習するには、
十分すぎるほどの一次資料となる経験だった。
それぞれが自分のもとで自由に組み合わさってしまったおかげで、
いちいち自分と同世代とを比較することに意味を感じなくなったのも、この原体験にある。
コンプレックスとは、知らず知らずのうちに駆り立てられる競争に、
知らず知らずに刷り込まれる不自由さでしかない。
今の自分にしかできないことを、下手でも楽しく積み上げる勇気を持って、
自由闊達に学んで動けさえすればそれで大丈夫。
そのとき、コンプレックスのほうが勝手に自分を応援してくれるんだよね。