何かが分かりづらいと感じるとしたら、おおよそはこのどれかだ。
・知識が足りない
・精神的・肉体的にきつい
・文脈や意図が見えづらい
知識の足りなさや、精神的・肉体的なきつさはさておき、
限られた時間と空間で何かを話すとしたら、
知識のレベルと精神状態に合わせて、
話し手がその都度ごとに開けた文脈を作る必要がある。
(あるいは、敢えて壊したり隠したりする必要がある。)
これが会話でなく文面になるのであれば、その都度の確認が取れないために、
より仕掛けを組み込む配慮が必要になる。
この配慮が足りていない状態のときに、「分かりづらい」という分かり方が出てくる。
ふとした拍子に、久しぶりに橋本治作品とその周辺のインタビューを読んだ。
以前から思っていた、氏の文章のある種の分かりづらさは、
時として出てくる「文脈の見えづらさ」によるものだと感じた。
例を挙げると、
「ヤンキーは自分の経験値で生きる」
「(自分は)どちらかというと「ヤンキー」に近い」
といった性格が、ある種の奔放ぶりによる文脈の見えづらさを物語っている。
以下の引用を、仮に「(20世紀の日本全体をぼんやり眺めた、特に経済面での)大きな物語の終焉」であるとしよう。
20世紀というのは、そういう「西洋的な知性」特に「経済の理論」を身に着けて、ともかく、その「理論」を信じていれば、大きく、豊かになれるという時代だったわけだけど、今や20世紀が終わり、その「理論」は通じなくなってしまった。
実際のところは、21世紀の日本を眺めれば、むしろ「西洋的な知性」がいっそう際立つことて、一定以上の豊かさをもたらしてくれている。
20世紀的な護送船団方式が解除され、21世紀的な個人が自由を得るためにテックとビジネスに関わるという仕組みは、西洋的な知性や理論の延長線上にある。
高学歴層がコンサルティングファームに就職したがるということも、この傾向と同じだ。
となると、ここで言う20世紀的な視点については、(編集の都合はさておき)誤解が残されたままだったかもしれないと言えてしまう。
日本の20世紀的な発想がもたらしていたとされる豊かさは、上意下達で組織中心主義的な要素をとうとう切り離せなかった。おそらく、これに異論をはさむ余地はない。
また当然ながら、北米だろうと欧州だろうと、上意下達で組織中心主義的な要素は少なからず過去も今も(確実に減ったと言えるかもしれないが、まだまだ)存在している事実がある。
したがって、それほど西洋的でも理論だったものでも無ければ、知性的ですらなく、本当に豊かだったかどうかさえ疑問が残る。
ただし、文脈や意図の見えづらさのいっぽう、以下のように締めくくっている。
で、最後に、ちょっとだけ真面目なことを言うとさ、さっきも言ったように、私の考える「知性」って、生き物のように変化し続けるものなんですね。一回できあがった知性は、既にその時点で方向づけられているから、その時々のクダラナイものを吸収してもう一度変わらなきゃいけないし、その過程で吸着した「ゴミ」が突然知性に変わることもある。別の言い方をすれば、そういうプロセスを絶え間なく繰り返すことが、私の考える「知性」なんです。
「知性も豊かさも、事実や前提をあまり調べ切れておらず、投げ捨ててしまっているのでは?」
という疑問が出ていたが、この締めくくりでようやく少しだけ見えた。
そもそも、自分の経験値を優先し、方向付けをぶん回して変えていき、
その時々のクダラナイものを吸着するからこそ、文脈が見えづらくなるわけだ。
絶え間ない変化を許容できなくなってしまうのであれば、それはもはや知性とは言えない。
そのような方向付けられていない物事は、当然ながら時として分かりづらい。
「ヤンキー知性を語る」という矛盾した方向付けを設定しているのだから、
瞬間風速的な分かりづらさが繰り返されることは想定しておかねばならない。
読み手として、何かが変わるきっかけが得られるとしたら、
色々な分かりづらさとタイマンを張る以外にないということなんだよね。